公衆電話と、パッチの温度

──平成0x29A年02月19日 18:30

平成0x29A年02月19日、18時30分。
私は今日も、旧足立エリアの一角にあるアパートの一室にいた。玄関を開けた途端に香る、昔懐かしい醤油ラーメンの匂い。棚には所狭しと並べられたインスタントラーメンの景品——小さなフィギュア、マグカップ、謎のキャラクターグッズ。どれもこれも、私が生まれるずっと前のものばかりだ。

「遥ちゃん、ありがとうね」
\n呼んだのは、山田さん。御年93歳。週に3回、私が訪問看護ヘルパーとして訪れる利用者だ。少し耳が遠いが、記憶力は確か。ただし、時々思い出す「平成」の年代がごちゃ混ぜになる。

「山田さん、今日もお変わりないですか? パッチ、貼りますね」

私は慣れた手つきで、山田さんの腕にナノ医療パッチを貼った。微細な針が肌に触れる感覚は、私にはほとんど伝わらないが、山田さんはいつも少し身を震わせる。このパッチは最新の医療技術で、体内のバイタルをモニタリングし、必要に応じて微量の薬を自動投与する優れものだ。しかし、このパッチの供給や使用プロトコルが、党ドクトリンの度重なる閣議決定で複雑化している。

「この前、あの医者から電話があったんだけど、何言ってるかさっぱり分からなくてねぇ。やたらと『署名』だの『アルゴリズム』だのって」

山田さんが、ふとリビングの隅に置かれた年代物の公衆電話を指差した。現行の通信システムとはほとんど互換性がない代物だ。なぜ未だにこんなものが、と私はいつも思う。

「あれは、災害時の緊急連絡用として残されているんですよ。でも、使える電話番号は限られているし、古い通信規格だから、繋がりにくいことも多いんです」

私のエージェント、スミおばあちゃんが脳内で語りかける。享年82。私が物心ついた頃にはもう訪問介護の仕事をしていた、私の祖母だ。

『そうね、遥。あの電話は、今のシステムの歪みを一番露骨に示しているわね。誰もがスマートフォンを持っているのに、特定の誰かだけが、古い時代の遺物にしがみついている』

「おばあちゃん、それはシステム側がそうさせてるのよ」
私は心の中で返答する。

山田さんは公衆電話の受話器を取り上げ、ダイヤルを回そうとしている。当然、電源は入っていない。それでも彼女は、昔の友人の番号を口ずさみながら、耳に当てて「もしもし」と呟いた。

「山田さん、電話はまた今度にしますか。それより、今日の気分はどうですか?」

私は山田さんの手を優しく取り、触覚フィードバック端末を取り出した。今日の体調、食事、気分。それらを端末に記録していく。指先には、入力された文字や感情が微かな振動として返ってくる。スミおばあちゃんの存在を一番強く感じる瞬間だ。彼女もこの仕事で、たくさんの記録を残してきたのだろう。

『このパッチ一つにしても、供給ルートの最適化と称して、毎週のように手順が変わる。古い記録との整合性も取れていないから、手作業での確認が必須。まるで平成時代の、新しいソフトと古いハードを無理やり繋ぎ合わせていた頃のようね』

スミおばあちゃんの声に、私はため息をついた。本当にその通りだ。本来ならAIが自動で判断し、最適な手順を提示してくれるはずなのに、党ドクトリンのアルゴリズムは末期で、もうほとんど誰もが「解読」して、その穴をすり抜けている。形骸化した手続きだけが残った結果、一番しわ寄せが来るのは現場だ。

記録を終え、私は山田さんの夕食の準備を手伝う。インスタントラーメンの景品に囲まれた食卓で、山田さんはテレビでやっていた昔のドラマの話をした。「携帯電話が出てくるんだけど、やたらと分厚くてねぇ。でもみんな、それが当たり前だと思ってたんだよ」。

山田さんの話をBGMに、私は今日の業務報告をまとめる。触覚フィードバック端末の指先に、スミおばあちゃんの指先が重なるような、温かい錯覚を覚える。

「ねぇ、おばあちゃん」

私は誰にも聞こえない声で囁いた。

「私、本当は、この非効率で不便な平成エミュレーションの介護現場が、嫌いじゃないのかもしれない。だって、パッチの温度や、公衆電話のノイズ、景品のガラクタの一つ一つに、人の温もりが残っている気がするから」

端末の指先から、微かに、優しく、スミおばあちゃんの「そうね」という返答が伝わってきた気がした。
今日の夕日は、平成の色をしていた。