始発ホームの遺伝子と、現像されなかった朝
──平成0x29A年04月11日 06:00
四月の朝六時。ホームに降りる階段の手すりが冷たい。
旧武蔵野線の始発を待つ人間は、あたしを入れて三人しかいない。ベンチの端で膝にカメラバッグを載せて、右耳の自動翻訳イヤホンから流れる韓国語のポッドキャストをぼんやり聞いている。イヤホンは祖母の形見で、翻訳精度がひどい。「キムチの発酵」が「金地の発行」になる。まあいい。
左耳に、おばあちゃんの声。
『凛花、フィルム何本持った?』
「四本。プロビア二本と、モノクロ二本」
『現像代、月末きついでしょ。二本にしなさい』
エージェント・松浦敏江。享年六十七、あたしの母方の祖母。生前と同じく財布の紐だけは絶対に緩めない人で、死因が心臓発作だったくせに心配事の九割は孫の出費である。
電光掲示板が「06:03 各停 府中本町」と表示している。その横に、半透明の町内会掲示板がARで浮いていた。「回覧:第4地区遺伝子ネットワーク定期照合のお知らせ 四月十一日~十三日」。あたしはそれをちらっと見て、視線を外した。年に一度か二度ある、あのぼんやりした照合。唾液キットが届いて、出して、忘れる。それだけのこと。
ところが今朝は違った。
ホームの柱に寄りかかっていたスーツの男が、急にしゃがみ込んだ。額に汗が浮いている。
「大丈夫ですか」
声をかけると、男は右手首の端末をこちらに見せた。画面に赤い菱形のアイコンが点滅している。見覚えがあった。遺伝子ネットワークの照合異常通知——ただし、あたしが知っているのは黄色の「要確認」だけだ。赤は見たことがない。
『凛花、関わらないほうが——』
「おばあちゃん、ちょっと黙って」
男は息を整えながら言った。「デジタルツインが、凍結された」
意味を飲み込むのに数秒かかった。遺伝子ネットワークの微細な不整合が出ると、本人のデジタルツイン——行政手続きも決済も移動認証もぜんぶ紐づいている影みたいなやつ——に一時ロックがかかる。つまりこの人は今、改札を出ることも乗ることもできない。
「照合キット、今朝届いてたのに」男は苦笑した。「出す前にこれだ」
始発が滑り込んできた。ドアが開く。あたしは乗るべきだった。撮影スポットの光は朝の十五分しかもたない。フィルムは巻き戻せない。
右耳のイヤホンが、ポッドキャストの合間にニュース速報を翻訳した。「遺伝子ネットワーク第4地区、照合サーバ……一時的に……再起動」——翻訳が崩れて「再起動」が「再帰頭」になった。
『乗りなさい』と祖母が言った。
あたしはカメラバッグからフィルムカメラを取り出して、ファインダーを覗いた。ホームの男、赤い通知、始発の開いたドア。シャッターを切った。巻き上げレバーの感触が指に残る。
「何してるんですか」と男が訊いた。
「記録」とあたしは答えた。「デジタルが止まったなら、アナログで」
我ながら気障なことを言った。祖母が左耳で溜息をついた。
ドアが閉まった。始発は行った。
次の電車は十二分後。あたしはベンチに座り直した。男も隣に座った。二人とも黙って、町内会掲示板のAR表示を眺めていた。「照合のお知らせ」の下に、いつの間にか一行追記されていた。
「※本日照合サーバ不具合のため、延期します。ご迷惑をおかけします」
男の手首が震えた。赤い菱形が消え、画面が通常に戻っている。デジタルツイン、復帰。
「……乗れたじゃないですか、さっきの」
あたしは巻き上げレバーに手をかけたまま固まった。一枚、無駄にした。いや、無駄というか。
『ほら見なさい。フィルム代』と祖母が言った。
反論できなかった。