プリクラの光が消えるまで
──平成0x29A年04月20日 22:50
平成0x29A年4月20日、22:50。
私は第23観光ブロック「湾岸平成モール」の来訪者カウンターで、薄いビニール手袋をはめ直した。受付台の上には紙のパンフレット、横にはAR案内の小さな投影器。頭上のスピーカーから、圧縮の甘いJ-POPが流れている。隣のプリクラ機が、撮影待ちの光でずっと瞬いていた。
「すみません、これ、通らないんですけど」
旅行者の青年が差し出したのは、観光パスの“紙”と、ガラケー型端末。端末の画面はiモード風の白黒メニューなのに、上空にはAR広告が派手に泳いでいる。
『本日限定:高層農業プラント見学 夜景と摘みたてバジル』
広告の矢印が、ガラス越しに見える遠方の塔――植物工場の光へ、無遠慮に客の視線をさらっていく。
「端末、ここにかざしてください」
私は読み取り板に誘導した。ピ、と鳴るはずが、鳴らない。代わりに、内側から湿った警告音がした。
《署名検証:不一致/党ドクトリン鍵派生:402期-末端互換性なし》
画面の文言に、私は一瞬だけ舌の奥が冷えた。
耳元で、母の声がした。私のエージェント――故・相沢由紀、享年55。脳梗塞で倒れてから、こうして私の右耳に住んでいる。
『あんた、また“互換性なし”増えてる。最近、やけに出るね』
「すみません、もう一度…」
私は笑って、読み取り板を拭いた。青年の背後では、制服の高校生がMDプレーヤーを首から下げ、イヤホンを片耳だけ外して友達と喋っている。ストリーミングのサブスク広告が空中に踊る真下で、MDの小さな回転音が、かすかに聞こえた。
『紙のほう、裏見て』と母。
青年が渡した観光パスの裏には、手書きのスタンプが押してあった。薄いインクの丸印の中に、
《第0x11492内閣ユニット暫定承認》
とある。
「これ、どこで?」
「さっき入口で。並んでたら、案内の人が“今ならすぐ通る”って」
“案内の人”。そう言う時、たいてい制服は本物に似せた投影だ。AR広告と同じレイヤーに紛れる。
私はカウンター下の端末で、差分断片の照会を叩く。申請ログはある。だが、閣議署名が途中で途切れていた。
《現行制度との差分:観光パス検証手順の簡略化》
《レビュー:保留》
《署名:未確定(ドクトリン鍵衝突)》
『つまり、誰かが“暫定”を勝手に刷ったってこと』母の声が低くなる。
青年は苛立ちを隠さず、ガラケー端末を握り直した。
「見学、22時台の回なんです。高層農業プラント、夜のやつ。これで入れるって…」
遠くの塔は、ガラスの中で淡く脈打っていた。棚が上下に動く影が、規則正しく窓面を横切る。
私は一瞬、頭の隅で“別の”通知の気配を感じた。来訪者カウンターの端末は、行政端末と同じ連鎖にぶら下がっている。たまに、こちらの意思と無関係に、役割が降ってくる。
母が息を呑んだ。
『来るよ』
私の視界の片隅に、小さなダイアログが開いた。
《あなたは第0x11492内閣ユニット 内閣総理大臣です(残り 04:59)》
笑うしかなかった。観光パス一枚で、五分間だけ。
「えっと……少々お待ちください」
私は奥の“手続き室”に下がるふりをして、カウンターの死角で端末を握り潰すように持った。差分断片の承認/非承認ボタンが並ぶ。母が囁く。
『承認すると、今日ここにいる人は通る。でも、鍵が衝突してるのに通したら、あとで検証が崩れる』
「崩れるって?」
『通った記録だけが、鎖からはみ出す。誰が通ったか、後から“整合”させるために……別の記録が作られる』
母の言い方は、昔、私の宿題の誤魔化しを見抜いた時と同じだった。
手続き室の壁には、観光向けのAR広告が染み出していた。
『プリクラ半額! 旅の思い出は“証跡”に』
プリクラ機のフラッシュが、壁越しに瞬いた。思い出と証跡が同じ言葉で括られているのが、急に気持ち悪い。
私は、承認ボタンの上に指を置いた。青年の顔が浮かぶ。夜の植物工場を見たいだけの旅行者。MDの回転音。平成の匂い。
そして、画面の端に小さく出ている注意書き。
《党ドクトリン署名:推奨テンプレートv402.9(解読済)》
解読済。誰でも真似できる、という意味だ。
私は非承認を押した。
残り時間が、淡々と減る。
《非承認:記録》
《理由:署名鍵衝突、来訪者検証の破綻リスク》
カウンターに戻ると、青年はもう一度プリクラ機の光を見てから、肩を落とした。
「……じゃあ、どうすれば」
「明日の回に振替を。紙のスタンプは無効です」
私はマニュアル通りに言った。青年は紙を握り潰しそうになって、結局、丁寧に畳んだ。
その背中が人混みに消える直前、AR広告の矢印がふっと青年だけを追いかけた。追尾が、広告にしては正確すぎる。
母が小さく笑った。
『ねえ。非承認にしたのに、記録は残った。あの子が“通らなかった記録”まで、誰が欲しがるんだろうね』
プリクラ機が、次の客を飲み込む音を立てた。
高層農業プラントの塔は、遠くで静かに光り続けている。
その光が、今夜だけ少し、こちらを見ている気がした。