ティッシュ配りの統治学
──平成0x29A年 日時不明
俺は今日も駅前でティッシュを配っている。
午前十時。通勤ラッシュが一段落した頃合いだ。手に持つのは不動産会社のロゴ入りポケットティッシュ、五百個入りの段ボール箱が足元に三つ。
「どうぞ、お持ちください」
声を張る。受け取る人もいれば、素通りする人もいる。平成のこの街は、いつもこんな調子だ。
ポケットのPHSが震えた。亡き兄貴・岩本修の声が耳に直接響く。
『おう、達也。今日も元気にやってるか』
「ああ。まあな」
小声で返す。通行人には俺が独り言を言っているように見えるだろうが、気にしない。
『今日は第0x7A3C2内閣ユニットの閣議が回ってきてるぞ。お前、三分後に総理だ』
「マジかよ」
思わず声が大きくなった。隣で同じくティッシュを配っていた山崎さんがこちらを見る。会釈して誤魔化す。
『政策リクエストは三件。一つ目、駅前広告規制の緩和。二つ目、配給券デジタル化の延期。三つ目、遺伝子ネットワーク保守予算の増額』
「どれも面倒くさそうだな」
『党ドクトリン署名の準備はできてる。お前はハンコ押すだけだ』
PHSの画面に、古いiモード風のUIで政策文書が表示される。横にはAR広告がちらちらと点滅している。駅前の電光掲示板には、サブスク音楽サービスの宣伝が流れている。ガラケーとスマートフォンを両手に持った女子高生が、俺の前を通り過ぎていく。
「兄貴、これ本当に俺が決めていいのか?」
『決めるっていうか、署名アルゴリズムが決めてるようなもんだけどな。お前はただ承認ボタンを押すだけ』
二分後、PHSの画面が切り替わった。『第0x7A3C2内閣ユニット 内閣総理大臣 岩本達也』という文字が表示される。
俺は深呼吸して、政策文書を一つずつ確認する。といっても、専門用語だらけでよくわからない。兄貴の補佐がなければ何も判断できないだろう。
『一つ目、承認。二つ目、非承認。三つ目、承認。これでいいか?』
「わかった」
俺は指示通りにボタンを押す。画面に『党ドクトリン署名検証中……』という文字が流れる。数秒後、『承認完了』の通知。
それで終わりだ。
五分が経過し、PHSの画面が元に戻る。俺はまたティッシュ配りに戻る。
「どうぞ、お持ちください」
声を張る。受け取る人もいれば、素通りする人もいる。
『達也、お疲れさん』
兄貴の声が優しく響く。
「なあ、兄貴」
『ん?』
「俺、今、何か意味のあることしたのか?」
兄貴は少し黙った。それから、いつもの調子で言った。
『さあな。でも、誰かがやらなきゃいけないことではあるんだろ』
俺は段ボール箱からティッシュを取り出す。通行人の波は途切れない。駅前の電光掲示板には、今度は内閣ユニットの政策広報が流れ始めた。『第0x7A3C2ユニット 駅前広告規制緩和を承認』。
俺が三分前に押したボタンの結果だ。
「どうぞ、お持ちください」
声を張る。受け取る人もいれば、素通りする人もいる。
それでいい。それが俺の仕事だ。