兄の残した冗長なエラー
──平成0x29A年 日時不明
僕のコンソールのタイムスタンプは、もうずっと前から『記録欠損』のままだ。
「……パターンD-32、再同期失敗。リトライします」
合成音声が、無機質に敗北を告げる。目の前の透過スクリーンには、兄さん――相沢誠の人格エージェントのコアダンプが、意味不明な文字列の滝となって流れ落ちていた。
『リョ……スケ……ブラウン管……ノイズ……シュ……』
兄さんの声が、砂嵐のように途切れる。法定倫理検査を終えたばかりのエージェントは、僕の個人データとの再同期にことごとく失敗していた。まるで、僕との接続を頑なに拒んでいるみたいに。
「相沢くん、まだやってるのか」
背後から声をかけたのは、先輩の田辺さんだった。手には温かいお茶の入ったマグカップを持っている。
「お前の兄貴のエージェントは、いつもひと癖あるからな。党ドクトリン準拠の検査ツールじゃ、相性が悪いのかもな」
「……そうかもしれません」
党ドクトリン。その言葉を聞くと、いつも胸のあたりが少しだけ冷たくなる。誰もその実体を知らないくせに、僕らの世界の隅々まで規定している絶対のルール。兄さんは、生きていた頃からそれを嫌っていた。
田辺さんが去った後、僕は決心して、非公式のデバッグツールを起動した。見つかれば懲戒ものだ。でも、このままじゃ兄さんの声が完全に失われてしまうかもしれない。
エラーログを深く潜っていくと、奇妙な保護機構に行き当たった。兄さんが個人的に組んだ、強力な『量子乱数ロック』だ。正規の手段では絶対に開けられない。
途方に暮れて机に突っ伏した時、ふと、研究室の隅に積まれたガラクタの山が目に入った。その一番上に鎮座している、古めかしいブラウン管テレビ。兄さんが『純粋なノイズを観測するのに最適なんだ』とか言って、どこかから拾ってきた代物だ。
まさか。
僕は吸い寄せられるようにテレビの電源を入れた。ザーッ、という懐かしい音とともに、画面いっぱいに白と黒の砂嵐が踊りだす。そして、ポケットから兄さんの形見のeペーパー端末を取り出した。
そこには、兄さんが最後に書き残したらしい、走り書きの数字の羅列が薄く表示されている。
『領収書:品代として ¥83,410』
領収書? 引き出しの奥を探ると、一枚だけ、手書きの古い領収書が出てきた。宛名は僕になっている。日付は空欄。ただ、但し書きにこうあった。
『弟への迷惑料』
ブラウン管のノイズ。eペーパーの数字。手書きの領収書の金額。
「……そういうことかよ、兄さん」
僕は震える指で、各デバイスから抽出した値を、量子乱数ロックの解除キーとして入力した。テレビのノイズパターンをシード値に、eペーパーの数字をソルトに、そして領収書の金額をプライベートキーとして。
カチリ、と軽い音を立ててロックが外れる。
現れたのは、兄さんの研究データなんかじゃなかった。ただのテキストファイルだ。開くと、たった数行のメッセージが表示された。
『亮介へ。法定倫理検査、お疲れさん。毎年毎年、面倒だろ? だから、お前にしか解けないエラーを仕込んでおいた。このバックアップデータを使えば、検査をパスしたことにして同期できる。たまには肩の力抜けよ。』
僕は、しばらく呆然と画面を見つめていた。
深刻に悩んでいたのが、馬鹿みたいじゃないか。
やがて、こみ上げてくる笑いを抑えきれなかった。研究室に、僕一人の乾いた笑い声が響く。
バックアップデータを適用すると、スピーカーからクリアな声が聞こえてきた。僕がずっと焦がれていた、少しだけ人を食ったような、懐かしい兄さんの声が。
『よぉ、亮介。待たせたな。で、経費で美味いもんでも食いに行くか? 領収書、俺がまた書いといてやるよ』