メダルの裏、プリンタの朝
──平成0x29A年06月04日 05:30
午前五時半、ラボの合成食品プリンタが三台並んで唸っている。
うち一台が、またエラーを吐いた。
「ノズル詰まり。たんぱく質カートリッジBの粘度が規定外です」
代理エージェントの声は、祖母のそれとはまるで違う。事務的で、抑揚がない。祖母の法定倫理検査はもう二週間続いていて、戻りの目処は通知されていない。
私はノズルを外して洗浄液に漬けた。第11研究ブロックの食品開発ラボ。ここでやっていることは単純で、合成食品プリンタの出力パターンを改良し、味と食感のデータを分散ストレージに蓄積する。それだけ。朝五時台に出勤する理由は、プリンタの初期キャリブレーションが温度と湿度に敏感だからで、空調が安定する早朝がいちばん精度が出る。
ポケットの中で、ゲームセンターのメダルが二枚、触れ合って鳴った。
昨夜、帰り道に寄った。ブロック境界の商店街にある「パレスアーケード」。プッシャー台にメダルを落として、押し出されるメダルの連鎖を眺めるのが好きだ。祖母が生きていた頃、よく連れて行かれた。あの人はクレーンゲームが異様にうまかった。
メダルを一枚、指先で回す。裏面の刻印が磨り減っている。
「政策変更リクエスト一件。レビュー期限、本日〇六〇〇」
代理エージェントが読み上げた。私は洗浄液に手を突っ込んだまま、片耳で聞く。
内閣ユニットの持ち回りが、今朝の私に当たったらしい。五分だけ。いつものことだ。
「内容は」
「合成食品プリンタの出力規格改定。現行の味覚テンプレート七十二種を九十六種に拡張する差分。提出元は第11研究ブロック食品開発ラボ」
私のラボだった。
正確には、私が先月チームリーダーの指示で書いた差分データそのものだ。分散ストレージに上げた実験結果をもとに、出力規格の変更をリクエストした。それが巡り巡って、承認者としての私のところに戻ってきた。
「利益相反じゃないの」
「利益相反の自動検出は現在停止中です。党ドクトリンの署名アルゴリズムによる検証のみ有効」
署名アルゴリズム。もう半ば解読されているやつだ。ラボの同僚は昼休みにその解析をパズル代わりにやっている。
私はノズルを拭いて、プリンタに戻した。キャリブレーション用のサンプルが出力される。薄い煎餅のような円盤。食べてみる。海苔の風味がわずかに強い。悪くない。
「承認で」
「署名を生成します。……完了。第0x7A2F1内閣ユニット、閣議決定として記録しました」
五分も経たなかった。
デスクの引き出しを開けて、磁気定期券を確認する。ブロック間移動用の、カードリーダーに通すタイプ。裏面に油性ペンで名前を書いてある。祖母の字だ。私が配属されたとき、「書いておかないと誰のかわからなくなるよ」と言って、勝手にマジックで書いた。エージェントになってからも、同じことを言った。
代理エージェントは何も言わない。
プリンタが二台目のキャリブレーションを終えた。三台目が静かに動き始める。窓の外はまだ薄暗い。六月の朝は湿度が高くて、ラボの窓ガラスが内側から曇る。
ポケットのメダルをもう一度鳴らした。
自分が出した書類を自分で承認した。それだけのことだ。誰も気にしない。システムも、党も、気にしない。たぶん祖母なら「あんた、それズルでしょ」と笑っただろう。
プリンタが、海苔煎餅をもう一枚吐き出した。今度は風味がちょうどいい。
私はそれを食べて、六時の始業を待った。