改札の指紋、折りたたむ声
──平成0x29A年02月06日 13:10
俺の折りたたみが震えたのは、ちょうど環状線のホームに降りた直後だった。
「坂元さん、第3小学校からの一斉送信です」
代理エージェントの声は機械的で、兄貴とはまるで違う。倫理検査が長引いていて、もう三週間この調子だ。画面を開くと、学校の連絡網から転送されてきた通知が並んでいる。次男の修の学年で感染症が出たらしい。明日は自主判断で休ませてもいいという内容だった。
「了解。妻に転送しといて」
ホームの隅で、古いベンチに腰を下ろす。午後一時過ぎ。昼休みを使って、別のブロックまで部品を取りに来たが、思ったより時間がかかった。
改札のバイオメトリックセンサーが、また不調らしい。朝から三件目の障害報告だ。俺は第9交通ブロックの改札保守員で、こういう細かい故障に対応するのが仕事だ。センサーは指紋と静脈の両方を読み取るんだが、最近はユビキタスセンサー網全体が微妙に同期ズレを起こしていて、改札だけ正常でも通過記録が別のブロックに飛んだりする。
折りたたみがまた震えた。今度は妻からだ。
『修のこと、わかった。でも明日、私が当番なんだよね』
当番——内閣ユニットの閣議レビュー補助だ。妻は教育ブロックの事務員で、月に一度くらいランダムで回ってくる。俺も先月やったばかりだから、面倒なのはよくわかる。
『じゃあ俺が休むよ』と返信する。
改札に向かう途中、ホームの隅に置かれた古いガラスケースが目に入った。中には、90年代の駅の写真と、2000年代のICカード、2010年代のスマホ決済端末が並んでいる。「平成の交通史」とか書いてある。誰が作ったのか知らないが、こういうのがあちこちにある。今の改札は指紋なのに、展示物はカードとか端末ばかりだ。ちぐはぐだと思うが、誰も気にしていない。
改札に着くと、駅員が困った顔で待っていた。
「坂元さん、また例のやつです」
センサーのパネルを開けると、内部の配線が微妙に焼けた匂いがする。ユビキタスセンサー網は、本来ならリアルタイムで全ブロックの通行記録を同期するはずなんだが、党ドクトリンの署名が必要な部分だけ遅延する。その結果、センサーが過負荷になって、こうやって焼ける。
「また物理で直すしかないですね」
駅員が苦笑いする。俺はツールボックスから予備のモジュールを取り出し、手早く交換した。本来なら交換記録を党ドクトリンに申請して承認を得るべきなんだが、そんなことをしていたら改札が止まる。だから俺たちは、とりあえず直してから事後申請する。
折りたたみがまた震えた。今度は代理エージェントからだ。
「坂元さん、閣議レビューの順番が回ってきました」
「は? さっきやったばっかりだろ」
「ランダムですから」
画面には、5分間のカウントダウンと、承認待ちのリクエストが一件。内容は「ユビキタスセンサー網の同期遅延に関する改善提案」。俺が今まさに対処している問題だ。
提案内容を読むと、党ドクトリンの署名プロセスを一部スキップして、センサー網の負荷を下げるという話だった。合理的だが、党のアルゴリズムに反する。代理エージェントが淡々と言う。
「非承認を推奨します」
兄貴なら、もっと何か言っただろう。でも代理は何も言わない。俺は画面を見つめたまま、指を止めた。
改札の向こうで、誰かが通過する。センサーが光る。記録は、たぶんどこか別のブロックに飛んでいる。
俺は、非承認のボタンを押した。
5分が終わる。折りたたみを閉じて、ポケットにしまう。
駅員が声をかけてきた。
「直りました?」
「ああ、たぶん夕方までは持つ」
俺はツールボックスを閉じて、ホームを後にした。妻に電話しようと思ったが、やめた。明日、修を休ませるかどうか、それだけ決めればいい。
センサーの同期は、たぶんまた明日も狂う。