打鍵音に溶ける呪文

──平成0x29A年 日時不明

いつの日のことかも、正確な時刻もわからない。空の明るさからして日中だろうが、教室の壁にある掛け時計は秒針が落ちたまま止まっている。私は第8教育ブロックの市民教養講座で、今日も「情報処理実務」の講師を務めていた。

「はい、そこまで。次は手書き領収書の切り方です。インボイス対応のスタンプは右下に押してくださいね」
生徒たちは、大半が時間を持て余した高齢の市民だ。彼らは分厚いCRTモニターの横で、真剣な顔をしてカーボン紙を挟んだ領収書にボールペンを走らせている。本来なら働かなくても生きていける世界だが、こうした「平成的」な勤労エミュレーションが、精神衛生上良いとされているらしい。

『しかし航、こんなこと教えて何になるんだ? 誰も現金なんか使わねえだろ』
視界の隅に浮かぶARウィンドウの中で、祖父・登のエージェントがぼやいた。五年前、心筋梗塞でぽっくり逝った祖父は、パチンコと陰謀論が好きだった。
「いいんだよ。様式美みたいなものだから」
私は心の中で返事をしながら、教室内を見回した。ある生徒の机には、裏紙として持ち込まれたスーパーの特売の折込チラシが敷かれている。窓の外では、重低音を響かせてドローン配達の機体が飛んでいき、隣のビルの屋上に小さな段ボールを投下した。

「先生、出席のピッてやつ、まだやってないんですけど」
一番前の席に座る小柄な老婆が、ガラケーの裏に貼られた近傍通信タグを振って見せた。
「ああ、すみません。今リーダーを回します」
私が読み取り機を手渡すと、老婆は満足げにタグをかざした。ピロン、と気の抜けた電子音が鳴る。

後半の時間は、タイピングの反復練習だ。生徒たちはフロッピーディスクから読み込んだテキストデータを、ひたすらワープロソフトに打ち込んでいく。
カタカタ、ターン。教室に響くリズミカルな打鍵音を聞きながら、私は生徒たちの画面を巡回した。

『……おい、ちょっと待て。あの婆さんの画面を見ろ』
祖父の声が、急に険を帯びた。
私は老婆の後ろに立ち、入力中のテキストに目を落とした。
通常なら「あいうえお」や「吾輩は猫である」といった文章が並ぶはずの教材ファイル。しかしそこに表示されているのは、無数の英数字と記号が入り乱れた異常な文字列だった。

「0x8A9F…h4_Sigma…」
私は思わず息を呑んだ。
これは、ただの乱数ではない。党中央ドクトリンが閣議決定を承認する際に用いる、暗号アルゴリズムの署名鍵だ。
数十万の内閣ユニットが並行処理を行い、選ばれた五分間総理が承認の可否を決める。その根幹をなす絶対的なルールであり、高度に秘匿されているはずの代物だった。それがなぜ、ただのタイピング教材の中に平文で露出しているのか。

『末期だって噂は本当だったんだな。解読屋の連中が面白半分にネットの海に放流したデータが、巡り巡ってこんな教育用のフリー素材に混ざっちまったんだ』
祖父が呆れたように言った。
これを政府の監査局に通報すれば、システムの一時凍結騒ぎになるかもしれない。あるいは、この教室の全員が連行される可能性すらある。

だが、老婆は画面の文字列の意味など微塵も気にする様子なく、キーボードを見つめて人差し指で「0」「x」「8」と一生懸命に打ち込んでいる。時折、間違えてはバックスペースキーを連打し、ため息をついていた。
「先生、この英語のやつ、難しすぎますねえ。手が疲れちゃった」
老婆がこちらを振り向いて、困ったように笑った。

その笑顔を見た瞬間、私の中の焦りはふっと消え去った。
世界を縛り付け、絶対の権威として君臨してきたはずの党ドクトリン。その心臓部であるアルゴリズムは、今や一介の市民のタイピング練習のための、ただの無意味な文字の羅列として消費されている。

「ええ、無理しないでください。疲れたら、裏紙のチラシでも眺めて休んでいていいですよ」
私は静かにそう答えた。
カタカタ、ターン。
かつて世界を回していた魔法の呪文が、ただの打鍵音となって教室の空気に溶けていく。その響きは、どこか心地よかった。