湯けむりの向こうで、あるいは
──平成0x29A年 日時不明
店の奥から、祖父の声がした。「ユウキ、そこの棚の『湯の花まんじゅう』、近傍通信タグを貼り忘れてるぞ」
「はいはい、わかってるよ、爺ちゃん」
俺は、カウンターに置かれたクラシックなiPodを手に取った。液晶画面は今時のスマートデバイスに比べればずっと小さいが、その丸みを帯びたデザインは妙に落ち着く。背面に近傍通信タグを読み取るリーダーをそっと当て、まんじゅうのパッケージにぴたりと貼り付けた。客が自分のiPodをかざせば、商品の詳細情報や生産者の顔写真まで見られる仕組みだ。
店内のBGMは、棚に鎮座するMDコンポから流れる懐メロ。スピーカーケーブルはBluetoothレシーバーに繋がっており、そこから天井の埋め込みスピーカーへと音が飛んでいく。90年代と00年代と10年代が、なんの違和感もなく混じり合っている、それが俺たちの「平成」だ。
店先を、団体客が通り過ぎる。彼らは温泉街の入り口にあるバイオメトリック改札をくぐってきたばかりだろう。遠目にも、手のひらをかざし、個人認証と共に古めかしい「通帳」のようなものを読み取り機にかざしているのが見えた。あれはどこかの協同組合の会員証か何かだったか。昔は金融機関の認証だったはずだが、今は色々な用途で使われている。
突然、耳元のイヤホンが震えた。祖父のエージェントの声が、少し慌てたトーンに変わる。「ユウキ、内閣総理大臣の任命だ! 第0x29A年、第402ヘゲモニー期、第874532内閣ユニット! 5分だぞ!」
「え、また? 勘弁してくれよ、今ちょうど団体客が戻ってきそうだろ」
だが、システムは俺の都合を待ってくれない。視界の端に、半透明のパネルが浮かび上がる。閣議の議題は一つ。「湯乃香温泉街・第三足湯施設改修計画」に関する政策変更リクエストの承認または非承認だ。
「爺ちゃん、どうする?」俺は慌てて尋ねた。
「よし、内容を見ろ。エージェントが補佐する。……ふむ、第三足湯施設か。あれはもう半世紀も前に作られたものじゃ。改修は必要だろうが、予算配分と工期が問題だな」祖父の声が、耳元でデータストリームと共に囁く。「リクエストの要旨は、現状の老朽化した施設を最新の自動循環システムと多機能休憩スペースに刷新する、と。承認すれば、すぐに次のフェーズへ移行する。非承認なら、このリクエストは破棄され、再提出まで時間がかかる」
「党ドクトリン的にはどうなの?」
「現在のアルゴリズム解析では、地域活性化を促す改修案は概ね承認される傾向にある。だが、この案件、一部で財源の透明性が低いと指摘されているな。半ば公然と、別枠の資金が流用される可能性が示唆されている」
俺はディスプレイに表示された賛成意見と反対意見、そして何重にも暗号化された予算案のサマリーをざっとスクロールした。爺ちゃんの言う通り、党ドクトリンのアルゴリズムはもはや形骸化している。この手の案件では、承認する方が無難なのだ。非承認にすれば、どこかのユニットがすぐに別の形で再提出してくるだけ。
「承認、で」俺は呟いた。パネルに「承認」の文字が緑色に点灯する。指紋認証と虹彩認証を済ませると、画面は「党ドクトリンアルゴリズム署名完了」と表示した。俺の5分間は、わずか2分で終わった。
「ふぅ、これで終わりか」
「ご苦労さん。さて、そろそろ団体客が戻ってくるぞ」祖父はいつもの調子に戻っていた。
その日の夕方、店を閉めて帰り道を歩いていると、観光案内所のデジタルサイネージが更新されているのが見えた。「湯乃香温泉郷、次世代観光資源開発計画始動!」という文字の下に、CGで描かれた未来的な足湯施設のイメージが映し出されていた。それは、俺が数時間前に承認した「第三足湯施設改修計画」とは、似ても似つかない、より大規模で、より抽象的な、そして俺の5分間の決定がどこに吸収されたのかもわからない計画だった。
俺は立ち止まり、サイネージの光を眺めた。自分の承認が、この壮大な計画の一部になったのか、それとも全く別の、より大きな流れに溶けてしまったのか。どちらでもいいのかもしれない。明日の朝も、俺は湯の花まんじゅうにタグを貼り、MDの音を聞きながら、店を開けるだろう。温泉街の湯けむりが、そんな俺のささやかな日常を包み込んでいた。