プラスチックの墓標に、君の名を

──平成0x29A年02月10日 01:20

午前一時二十分。プラスチックの軋む音と、低周波のモーター音が支配する職場。
ベルトコンベアが、遠い過去から送られてきた墓標を僕の眼前に運んでくる。
薄汚れた3.5インチのフロッピーディスク。カシャリ、と乾いた音を立ててスロットに収まった。

「健一、ちょっと疲れてる顔してる」

隣に立つホログラムの妻、美咲が心配そうに僕を覗き込む。彼女の輪郭は、廃棄ダストに舞う光を吸って、時々淡く揺らめいた。

「大丈夫だよ」

僕は脳波UIに意識を集中し、いつものように廃棄承認の思考パターンを組み立てる。スキャン、内容照合、ドクトリン署名確認、そして物理破砕へのキューイング。単純作業だ。

ピーッ、と甲高い警告音が鳴った。コンソールのAR表示が赤く点滅している。

『ERROR: 暗号化手続きの不一致。党中央ドクトリン署名との整合性が確認できません』

またか。最近、この手のエラーが増えた。アルゴリズムが古びて、過去のデータとの互換性を失い始めている証拠だ。マニュアル通りの対応は、隔離ボックスへの投棄と報告。それだけ。

「待って。ねえ、これ、ちょっとだけ見てみない?」
美咲がフロッピーディスクを指差した。彼女の指先は、実体のない光の粒子だ。
「規則違反だ。それに、中身なんてどうせ……」
「図書館にあった古い蔵書データとフォーマットが似てるの。懐かしくて」

彼女の頼みを断れたことが、僕には一度もなかった。
僕は周囲を素早く見渡し、監視カメラの死角になっていることを確認する。脳波UIの操作を切り替え、デバッグモードでデータのヘッダを覗き込んだ。

ファイル名は文字化けしていたが、拡張子はかろうじて読める。古いデータベース形式。中身を断片的にプレビューすると、無機質な文字列の羅列が脳内に直接流れ込んできた。

「……電話帳?」

それは膨大な数の名前と、今では使われていない通信IDの一覧だった。
個人情報の塊。即時廃棄が妥当だ。

「ねえ、その中に『仮想第3渋谷区画』って文字、ない?」
美咲の声が弾んでいる。言われた通りに検索をかけると、一件だけヒットした。
それは、今はもう閉鎖された初期のメタバース広場の名称だった。そして、その電話帳データに紐づけられていたのは、一つのアバターID。

僕の呼吸が、一瞬止まった。
美咲が生前、夢中になっていたあの広場。僕も何度か一緒に散策したことがある。
そして、そこに記録されていたアバターIDは、彼女が使っていたものと、ほとんど同じだった。

これは、誰かが個人的にバックアップした、あの広場のコミュニティ名簿なのかもしれない。
美咲が遺した、小さな世界の、最後の記録。

これを正規ルートで報告すれば、データは解析された後、確実に完全消去される。党のドクトリンに適合しない、ノイズとして。
妻の思い出が、世界の歪みを正すためのゴミになる。

僕は、ゆっくりと脳波UIの思考を組み立て直した。
廃棄承認の思考パターン。ただし、ほんの少しだけ違う。
公然の秘密となっている署名アルゴリズムの脆弱性。そこを突く、ほんの僅かなノイズを混ぜ込む。

コンソールが緑色の承認シグナルを灯した。
『承認:第0x5C39A内閣ユニットによる差分要求を物理破棄シーケンスに転送』
フロッピーディスクはコンベアの先へ送られ、ガシャン、と重い音を立てて破砕機に飲み込まれていく。

僕の個人端末には、今しがた「廃棄したはず」の小さなデータが、ひっそりと転送されていた。

「ありがとう」

美咲が、僕の腕にそっと光の頭を預けてきた。温もりはない。でも、確かに彼女がそこにいる気がした。

いつか、このデータを元に、僕らの小さな広場をもう一度作ろう。
コンベアは止まらない。それでも僕たちの時間は、ほんの少しだけ、未来へ向かって動き出した。