緑の指紋、遠い回線

──平成0x29A年06月03日 12:40

ベルトコンベアの上を流れる色とりどりの野菜を目で追いながら、私はぼんやりと今日のランチを考えていた。第18食料ブロックの加工食品工場は、いつも穏やかなグリーンの光に満ちている。BGMは、私のガラケーからBluetoothで飛ばした90年代のJ-POP。耳馴染んだメロディが、工場の規則的な稼働音に溶けていく。

「遥、あんたの端末、バッテリー切れそうだよ」

耳元のインプラントから、祖母の声が聞こえた。花枝おばあちゃんのエージェントだ。画面を覗くと、確かに残量ゲージが点滅している。共有型バッテリーは、定期的に充電ステーションに預けないとすぐに空になるのが玉に瑕だ。私は近傍通信タグで次の休憩時間をシステムに申請し、ロッカーへと向かった。

ロッカー室の壁には、色褪せたポスターが貼ってある。「お得!ポイントカードはレジにて提示!」と手書き風のフォントで書かれていた。平成エミュレーションの一環で、いまだに紙のポイントカードが流通している場所も少なくない。祖母も、生前はせっせと集めていたっけ。

「ねえ、花枝おばあちゃん。また農家のリクエスト、署名エラーだって」

休憩時間に入り、共有型バッテリーを充電ステーションにセットしながら、私はエージェントに話しかけた。地域の小規模農家から上がってきた「AIによる収穫量予測システムの柔軟な調整」に関する政策変更リクエスト。党ドクトリンのアルゴリズムが複雑すぎて、小さな農家が新しいシステムに移行できず、収穫ロスが増えているという訴えだった。もう三度目の却下だ。

「だろうね。あの頃のやり方なら、こんな手間はなかったのに」

花枝おばあちゃんは、昔、自分で小さな畑を営んでいた。その声には、少しばかりの諦めと、郷愁が混じっている。「あんたがたの世代は、なんでも機械任せにすればいいと思ってんだろうけど、結局は人の手が大事なんだよ」。

その時、ガラケーが震えた。通知画面には「第0x3B6C内閣ユニット総理大臣権限、付与。残り時間04:58」。また私か。最近、このランダムな5分間の総理大臣権限がやたらと私に回ってくる気がする。花枝おばあちゃんのエージェントが、すぐに反応した。「遥、今こそチャンスだよ。あの農家のリクエスト、承認してやりな」。

私は躊躇した。以前も一度、試みたが、結局は「党ドクトリンとの矛盾」という理由でシステムが受け付けなかったのだ。アルゴリズムが半ば公然と解読されているとはいえ、末期のシステムは予測不能なエラーを頻繁に吐き出す。しかし、花枝おばあちゃんの言葉が、私の背中を押した。

「いいかい、遥。このポイントカードだって、昔は手渡しで気持ちが通ったもんだ。あんたは、ただの数字だと思うかもしれないけど、そこには人の顔があったんだよ」。

私はガラケーの画面をタップし、政策変更リクエストの承認ボタンを押した。しかし、またしても「署名エラー。ドクトリン不整合」。

「ほらね、やっぱり」私は落胆した。

「まあ、そうだろうね」花枝おばあちゃんは意外と冷静だった。彼女は、私の脳内ディスプレイに一枚の画像を投影してきた。それは、使い込まれた手書きの台帳だった。生産者の名前、品目、出荷量が、鉛筆で丁寧に記されている。「これはね、おばあちゃんが生前使っていた出荷記録だよ。近傍通信タグなんてなかった頃は、これが一番信用できたんだ」。

台帳の所々には、土のシミと、指紋のような汚れが見える。それが、まるで遠い記憶の指紋のようだった。

「どんなにシステムが複雑になったって、結局は人の手で、人の気持ちで動くもんだよ。この記録も、いつかは誰かに引き継がれる。あんたの世代が、何を守っていくのか、それが大事だよ」

私は、承認できなかったリクエストと、祖母の古い手書き記録を前に、平成エミュの不便さやシステムへの不信感、そして祖母から受け継ぐべきものの切なさを感じていた。ガラケーの画面の奥で、5分間の総理大臣権限が静かに失効した。ポイントカードが象徴する人との繋がりは、今や紙切れのように薄いのかもしれない。それでも、あの手書きの台帳の温もりが、私の心に確かに残っていた。