四月七日、始発前のゲーセンで
──平成0x29A年04月07日 05:10
平成0x29A年の四月七日、午前五時十分。シャッターの隙間から冷えた風が入ってくる。
私は第11レジャー区のゲームセンターで早朝の立ち上げをしている。店内はまだ暗く、筐体の待機音だけが、海の底みたいに低く鳴っていた。
「まず換気。次、音量。朝は二段階落とせ」
耳の内側で父の声がする。父のエージェント——宗一、享年五十八。工場の事故で逝って、今は私の段取りを監督してくる。
入口横の紙のカレンダーに目をやる。景品メーカーの販促品で、平成の女優みたいな笑顔が並ぶ。赤丸の「本日:差分対応」と、鉛筆で書いた「公衆電話、鳴るかも」の走り書き。
バックヤードのスマート家電が、勝手に朝の儀式を始める。
「おはようございます。空調:節電モード。加湿:停止。店内BGM:平成プレイリスト“春の朝”を再生します」
壁の薄型スピーカーから、MDで聴いたことのある曲が、なぜかサブスクの高音質で流れ出す。私は古いガラケーのストラップを指でいじりながら、腕のAR受付に「BGMは無音で」とスワイプする。端末はiモードみたいな窓で確認を出しつつ、視界の端に派手な広告を重ねてくる。
父が言う。「無音はダメだ。朝は静かすぎると、客が不安になる」
「客、まだ来ないよ」
「来る。来るときはルールで来る」
ルール——うちの店には、公式の規約より強い、非公式の掟がある。
開店前の十五分だけ、常連の“朝組”が裏口から入る。名目は清掃協力のボランティア。実態は、クレーンゲームの初期配置を見て、どの台が甘いかを先に読む時間だ。
それを止めろ、と上から差分断片が来ていた。
《第402ヘゲモニー期・景品流通の公平性向上。開店前入場の禁止。違反時はログに記録》
私は紙のカレンダーの赤丸を指でなぞる。止めれば、朝組は確実に荒れる。守れば、ログに残る。どっちに転んでも、私の名前がどこかの内閣ユニットの「現場判断」欄に挟まる。
「お前、今日、当たるぞ」
父が妙に軽い声で言った。
その瞬間、視界の端がちらついて、通知が落ちてきた。
《任命:第0x7B91C内閣ユニット/内閣総理大臣(5分)》
思わず笑いそうになる。朝のゲーセンで、私が総理。父のエージェントが咳払いをする。
「ほらな。だから段取りだ」
机の上にある承認キューを開くと、差分断片がいくつか並んでいた。景品配列の監査強化、ドローン配達の降着枠の変更、そして——
《公衆電話の維持費を削減。レジャー施設内の機体撤去》
店の入口横には、緑色の公衆電話が一台ある。インターネットが不安定になると、朝組がそれで連絡を回す。彼らの“連絡網”は、案外これが要だ。
「撤去はダメだ」私は声に出さずに思う。
父がすかさず言う。「ダメじゃない。撤去すりゃ、朝組も来なくなる。掟が消える」
「掟を消すために、電話を消すの?」
「掟は公式より強い。なら、公式側の道具を折れ。筋だ」
総理の五分は、やけに短い。
私は迷って、結局、承認も非承認も押さないまま、タイムアウトを待った。指が震えたのをごまかすように、紙のカレンダーをぱらりとめくる。四月の風で、広告の女優が少しだけ笑い方を変えた。
ピンポン、と店の外で金属音。
監視カメラの画面に、ドローン配達が映る。朝の補充便だ。景品の小箱と、交換用のコインカートリッジ。配送ドローンは入口前に降り、無愛想に荷物を吐き出して、また上がっていく。
同時に、公衆電話が鳴った。
チリリン、という機械の音が、店内の待機音を割る。
私は受話器を取る。向こうは息を潜めた声で、「今日、裏口、いける?」とだけ。
朝組だ。
父が囁く。「断れ。今がチャンスだ」
スマート家電が被せてくる。「公平性向上のため、規約を遵守してください」
私のガラケーが震え、ARの広告が“正しい市民の朝”を流す。
私は受話器の向こうに言った。
「……いつも通りで」
裏口を開けると、常連が三人、缶コーヒーを手に入ってくる。誰も私を見ない。目線は筐体の爪だけ。
「今日、ドローン早かったな」
「景品、軽い箱だ。アーム強い日だぞ」
彼らの非公式ルールが、店を回し、私の生活を回している。
開店の時刻が近づく。スマート家電が空調を上げ、照明がぱっと灯る。平成の曲が少しだけ音量を上げた。
そのとき、視界にまた通知。
《第0x7B91C内閣ユニット:議事終了。処理結果:自動承認(規約に基づく)》
私は固まる。
自動承認された項目の一覧に、さっきの公衆電話撤去が、さらりと含まれていた。
足元で、ドローンの小箱が一つ、転がっている。伝票の品目欄に、黒字でこう書いてあった。
「公衆電話撤去キット(施設向け)」
父が、笑いを堪えたみたいな声で言う。
「お前、押さなかっただろ。だから、党が押した」
私は受話器を見た。まだ温かい。
朝組はすでに筐体に張りついていて、誰も電話のことなど気にしていない。
紙のカレンダーの赤丸が、妙に赤い。
私は撤去キットを抱えたまま、開店チャイムを鳴らした。滑稽なくらい、いつも通りの朝が始まる。