半券を挟んだ四月

──平成0x29A年04月21日 06:40

平成0x29A年04月21日、06:40。

研究棟の自動ドアは、今日も「ウィーン」じゃなくて、どこかMDの蓋みたいな乾いた音を立てて開いた。更衣室の白衣を羽織り、実験室の机に貼った紙のカレンダーを指でならす。角が少し波打っている。昨日、コーヒーをこぼした。

カレンダーの下に、チケットの半券を挟んである。三年前の「平成復刻フェス」——会場の通信が混んで、友だちと合流できなくて、結局ひとりで屋台の焼きそばを食べた日の。捨てそこねたのが、今は実験メモの栞だ。

「おはよ。今日は投票からよ」

耳元で声がする。祖母の声……ではない。

私の近親人格エージェント、祖母の永井トシ子は今、法定倫理検査に入っている。代わりに割り当てられた代理エージェントは、妙に丁寧で、妙に“訳しすぎる”。

「うん。分かってる」

私は触覚フィードバック端末を手首に巻く。古い腕時計みたいな形で、表面はやけに平成っぽい銀縁だ。けれど中身は、政策差分の承認・非承認に使う投票端末と同じ系統。

端末が軽く震え、皮膚の下に「押している感触」を作る。画面には iモード風の縦長メニュー、その上に半透明のAR広告が重なって「定額・空気清浄サブスク」なんて踊る。平成を真似るなら、もう少し控えめにしてほしい。

本業は食品開発ラボの補助員。だけどこの時代、朝一の“ブロックチェーン投票”は、ほぼ歯磨きみたいなものだ。

通知が届く。

《差分断片: 研究ブロック実験廃液の中和規格/閾値調整(第402ヘゲモニー期ドクトリン準拠)》

私は手袋をはめたまま、端末をタップする。触感が「カチッ」と返る。

「“閾値”は、えっと……」代理エージェントが読み上げる。「『いきち』……ではなく『しきいち』。あ、間違えました。『限界値』として処理します」

「ちょっと待って。今、限界値って言った?」

「同義語です」

同義語。代理はそう言って、勝手に文面を整形し始める。端末が震えて、まるで私の手首に小さな否定のノックを打つ。

廃液の中和は、しきい値を一段上げるか下げるかで、実験の段取りが変わる。限界値なんて言い出したら、規格そのものの意味が変わる。

私は端末を机に押し付け、触覚の「押し返し」を確かめる。画面の下に、投票の選択肢。

《承認 / 差戻し / 非承認》

「トシ子さんなら、こういう時、まず誰に電話する?」私は無意識に口にする。

代理は一拍置いてから、機械的に答えた。

「電話は推奨されません。議事は暗号連鎖上で——」

「そうじゃなくて」

私は白衣の胸ポケットから、古い折りたたみ携帯——ガラケーの形をした社内端末——を取り出して、開いて閉じた。癖で。

祖母なら、まず現場の人の“顔”を思い出す。中和槽の担当、夜勤明けの人、眠気と苛立ち。そういうのを、私より覚えている。

なのに代理は、文章の上だけで「正しさ」を作る。

端末の表示が、勝手にこう変わった。

《差分解釈: 安全限界値の上方調整(事故抑止)》

事故抑止。聞こえはいい。でも、私たちが求めているのは“適正な中和”で、限界を動かす話じゃない。

「誤訳だよ」

「誤訳ではありません。意味の明確化です」

明確化。私は、紙のカレンダーの今日の日付を爪で軽く叩いた。トシ子なら、ここで笑って私の手から端末を取り上げるだろう。

——“あんたね、分かってんなら差戻しにしなさい。人に迷惑かける前に”

私は息を吸って、差戻しを選ぶ。

触覚フィードバックが、指先に「押した」ではなく「押し込んだ」感触を返した。鎖に一票を刻む感触。端末の下に、確認のための短い文。

《差分断片を差戻します。理由を一行で》

代理が言う。「理由は『同義語の揺れのため』でよろしいですか」

「違う」

私は半券を指で挟み、紙の端のザラつきを感じながら打ち込む。

『“閾値”を“限界値”と解釈しないでください。運用閾値の調整です。』

送信。

端末が短く震え、どこか遠くで複数の内閣ユニットが同時に処理しているような、薄い耳鳴りみたいな静けさが室内に落ちた。たぶん今この瞬間も、ランダムに誰かが別の五分を生きて、同じ鎖に別の票を刻んでいる。

代理が、少しだけ声色を変えた。

「あなた、怒ってますね」

「怒ってない。ただ……」

私は言いかけて止めた。実験台の上には、昨日の培地、ラベルの剥がれかけた試薬、そして紙のカレンダー。全部、平成のまま置かれている。

代理は続ける。「トシ子さんの倫理検査、結果が出たら戻ります。あなたは、戻ってほしいですか」

その問いが、端末の震えよりずっと生々しく、手首に残った。

私は半券をカレンダーの下に戻し、角をきちんと揃える。

「……戻ってほしいよ。投票のためじゃない。朝、こうして、くだらない話を聞かせてほしい」

言ってから、喉が少し熱くなる。

代理は沈黙した。やがて、相変わらず丁寧な声で言う。

「承知しました。次回から、同義語の明確化を控えます」

違う、そこじゃない。

でも私は訂正しなかった。代わりに、白衣の袖でカレンダーのコーヒーの染みを擦った。

擦っても消えない。けれど、今日の日付だけは、やけにくっきりしていた。