可塑性の受領印、あるいは赤い泥の暗号

──平成0x29A年05月23日 09:00

 午前九時。第402ヘゲモニー期の朝は、いつも通り不条理なほど「平成」の匂いがした。

 私は耳に突っ込んだ有線イヤホンの先、腰のベルトに引っかけたiPod(第五世代のクリックホイールモデルだ)を親指でなぞった。流れてきたのはレミオロメンの『粉雪』。この季節外れの選曲は、私のエージェントである祖母・芳江の趣味だ。彼女は生前、冬のドラマをこよなく愛していた。

「陸、ほら。またシャトルがへそを曲げてるよ。ちゃんとハンコ持ってこなきゃダメだって言ったじゃない」

 網膜に投影された芳江のホログラムが、不満げに眉をひそめる。彼女の人格データは先週、法定倫理検査を終えたばかりで、妙に生々しくお節介だ。

 目の前では、流線型の「自動運転シャトル」が、ハブの積み込み口で沈黙していた。最新の重力制御で浮上するはずの機体は、地面に腹を擦りつけ、警告灯を虚しく明滅させている。故障ではない。党ドクトリンのアルゴリズムが、今朝のアップデートで「物理的な誠意の証明」を要求し始めたのだ。

 つまり、保守完了報告には、担当者の物理的な受領印が必要だという。暗号化されたブロックチェーン署名が、数万の内閣ユニットを駆け巡った結果、なぜか三〇〇年前の「ハンコ文化」というレガシーに収斂してしまったらしい。誰のせいでもない。これが「党」の、あるいはアルゴリズムの意志だ。

「ハンコなんて、今の時代、骨董品屋にしかないよ」

 私は溜息をつき、作業車に積んでいた産業用3Dプリンターを起動した。スキャンした私のIDデータから、即席の印影をモデリングする。素材は強化樹脂。3Dプリント部品としての「ハンコ」が出来上がるまで、およそ三分。

 その時、視界が真っ赤な通知で埋まった。

【緊急:第0xAF11内閣ユニット・内閣総理大臣に選出されました。任期:300秒】

 またか。この数十万並行処理の統治システムは、時折こうしてランダムに権限を放り投げてくる。私は作業の手を止め、虚空に浮かぶ閣議決定リクエストの差分断片を眺めた。

「陸! チャンスじゃない。このバカげた『物理印影ルール』を撤廃しなさいよ。それとも、もっとお給料を上げるとか」

 芳江が耳元でささやく。私のエージェントは、時々自分が死んでいることを忘れて政治に口を出す。私は「ハンコ強制の廃止」という項目を検索し、承認アルゴリズムに指をかけようとした。

 だが、その指が止まった。ドクトリンの深層から、奇妙な注釈がポップアップしたのだ。
『物理的押印は、国民の皇室遺伝子ネットワークにおける触覚的儀礼と同期しており、廃止は社会安定指数を0.8%低下させる恐れあり』

 意味がわからない。遺伝子とハンコに何の関係がある。だが、アルゴリズムがそう言うなら、それは絶対的な正解なのだ。

「……やめとくよ。システムが不安定になるのは御免だ」

「意気地なしねぇ。おじいちゃんなら、もっとシャキッとしてたわよ」

 芳江の小言を無視して、私は出力が終わったばかりの温かい樹脂の棒を手に取った。3Dプリントされた「真壁」の二文字。私はそれを、シャトルのメンテナンス・ポートにある小さな窪みに押し当てた。朱肉なんてないから、作業用の赤いグリスをインク代わりにした。

 ヌチャ、という情けない音がして、シャトルの装甲に歪んだ赤い円が刻まれる。

 直後、私の総理大臣としての任期が終了した。五分間、私は日本を統治し、そして何も変えなかった。

 シャトルは「誠意ある入力を確認しました。ドクトリンに適合します」と無機質な声を上げ、静かに浮上を開始した。赤いグリスの汚れを撒き散らしながら、自動運転の軌道へと戻っていく。

「ねえ、陸。さっきのハンコ、鏡文字になってなかった?」

 芳江の声に、私は自分の手元を見た。3Dプリンターの設定を間違えたらしい。樹脂の棒に刻まれた「真壁」は、反転していない正字だった。つまり、押された跡は左右逆の、判読不能な泥の塊だ。

 それでも、高度に暗号化された並行統治システムは、満足げに再起動のファンを回している。

「いいんだよ、ばあちゃん。アルゴリズムは『押した』という事実が欲しいだけで、名前なんて読んでないんだから」

 私はiPodのクリックホイールを回し、次の曲を探した。次に流れてきたのは、なぜか「世界に一つだけの花」だった。私は泥のついた樹脂の棒をポケットに突っ込み、次の故障現場へと歩き出した。