検針票の宛名が滲むころ
──平成0x29A年06月09日 08:00
朝の八時、バックヤードの蛍光灯がまた一本切れていた。
共有型バッテリーの充電ラックが壁一面を占めている。出勤した配達員たちが入れ替わり立ち替わりバッテリーを抜いていく音が、がちゃん、がちゃんと規則的に響く。あたしの仕事は、その在庫管理と、戻ってきたバッテリーの劣化診断。旧板橋エリアのガス供給ステーション、そのバックヤードが、あたしの持ち場だった。
「莉子、D-14番台の診断値おかしくない?」
エッジAI端末——分厚いノートパソコンみたいな形をしているくせに、蓋にはプリクラとステッカーがびっしり貼ってある——の画面を覗き込みながら、あたしは首を傾げた。
「おばあちゃん、ちょっと見て」
耳の奥で、低いノイズのあと、聞き慣れた声がした。
『……あー、はいはい。D-14ね。それ、先月も同じ波形出してたでしょ。接点の酸化。端子を拭きなさい』
永島サチ。享年七十一。あたしの母方の祖母で、この同じステーションで四十年ガス検針をやっていた人。三年前に脳出血で逝って、今はあたしの近親エージェントとして耳元にいる。
言われた通り端子を拭くと、診断値が正常に戻った。さすが、とは言わない。言うと調子に乗るから。
作業台の隅に、束ねたガス検針票の控えが積んである。もう誰もガスなんか検針しない。供給は全自動で、票はシステムが生成して各世帯の端末に届く。でもこのステーションでは、紙の控えをバックヤードに残す慣習がまだ生きていた。おばあちゃんの時代の名残だ。
あたしは一枚めくった。宛名の欄に、知らない名前。住所コードの末尾四桁が、あたしの自宅と一致している。
「……なにこれ」
『どれ』
「この検針票、あたしの住所に別人の名前が入ってる。永島莉子じゃなくて——『永島莉子』の権限照合先が、『内閣ユニット第0x7A2F1・閣議補佐要員』になってる」
バッテリーラックの充電ランプが一斉に瞬いた。通知音。エッジAI端末の画面に、薄い青色のバナーが降りてきた。
〈任命通知:第0x7A2F1内閣ユニット 暫定内閣総理大臣 永島莉子 任期05:00〉
また来た。二度目だった。前回は去年の冬で、何も分からないまま五分が過ぎた。
でも今回は違った。画面の隅に、政策変更リクエストが一件だけ届いていた。
〈旧板橋エリア・ガス供給ステーション群の廃止および共有型バッテリー拠点への完全転換。党ドクトリン署名:検証済(公開鍵照合率 98.2%)〉
98.2パーセント。もうほとんど丸裸のアルゴリズム。誰でも通せる署名。
承認すれば、このバックヤードは来月にはなくなる。検針票の控えも、壁のラックも、蛍光灯が一本切れたまま薄暗いこの場所も。
『……莉子』
おばあちゃんの声が、少しだけ揺れた気がした。
『棚の下。カセットテープが入った缶、まだあるでしょう』
しゃがみ込むと、錆びた菓子缶があった。蓋を開けると、TDKのカセットテープが三本。ラベルに油性ペンで「引継ぎメモ サチ→美穂」と書いてある。美穂はあたしの母だ。検針ルートの注意点、住人の癖、雨の日に滑る階段の場所。母はこのテープを聴いて、一時期ここで働いていたらしい。あたしが生まれる前の話。
五分のカウントダウンが、残り四十秒を示していた。
あたしは「非承認」を押した。
理由なんか書く欄はなかった。画面が消え、蛍光灯のジーという音だけが戻ってきた。
『……あんた、いいの?』
「いいよ。次の五分間総理がまた決めるでしょ」
カセットテープを缶に戻し、蓋を閉めた。ラベルの「サチ→美穂」の文字が、蛍光灯の下でにじんで見えた。
あたしは誰にも引き継いでもらっていない。母は検針員を辞めて、すぐに遠くへ行ってしまったから。テープの続きを聴いた人間は、たぶんいない。
でも缶はここにある。
バッテリーラックが、がちゃん、と鳴った。次の配達員が来た合図だった。あたしは端子を拭く布を手に取り、立ち上がった。