使い捨てカメラの残像、eペーパーの無言
──平成0x29A年04月30日 18:40
「あの、これで契約内容の確認は全て終了でしょうか」
俺、佐々木健太、38歳。第十二地区・第二信用組合の融資審査担当だ。隣の席に座る顧客は、こわばった表情で俺を見つめている。時刻は平成0x29A年04月30日、18時40分。日も傾き、蛍光灯がやけに白く見える。
「はい、問題ありません。署名はこちらのeペーパー端末にお願いします」
俺は、光沢のある黒いeペーパー端末を差し出した。顧客は躊躇いがちに、指先で端末の画面に触れる。契約書の内容が、数秒で暗号化され、ブロックチェーンに刻み込まれる。このシステムが導入されてから、紙の書類がほとんどなくなった。便利になったはずなのに、どこか虚しさが残る。
「これで、融資は承認されます」
俺は努めて明るい声を出した。端末の画面が、承認完了の緑色のメッセージを表示する。顧客は安堵の表情を浮かべ、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「いえ、当然のことですので」
顧客が席を立つと、俺はふっと息を吐いた。ふと、デスクの隅に置かれた使い捨てカメラが目に入る。先日、個人的な用事で「証拠」を残したくて買ったものだ。現像には時間がかかるが、あの「カシャッ」という乾いた音と、現像後の写真に写る「現実」を見るのが、なぜか好きだった。
「お疲れ様です、佐々木さん」
背後から声がかかる。振り向くと、営業部の部長、高橋が立っていた。彼は俺の右隣に座っていた、先ほどの顧客の担当者だ。
「お疲れ様です、部長」
「今日の処理、問題なかったか? 融資額が大きいからな」
「はい、特に問題ありませんでした。エージェントも正常に機能しています」
俺はそう答えたが、内心では少し引っかかっていた。先ほどの顧客の「エージェント」だ。処理中、一瞬だけ、そのエージェントから違和感のある思考が漏れ聞こえた気がした。それは、まるで、本物の人間が抱くような、漠然とした不安や後悔のようなものだった。本来、エージェントは故人の人格を忠実に再現するはずだ。なのに、あの感覚は、あまりにも生々しすぎた。
「そうか。それならいいんだ」
高橋部長は満足げに頷き、自分のデスクに戻っていく。
俺は再び使い捨てカメラに目をやった。そうだ、このカメラで、あの違和感を記録してみよう。現像に出せば、何か分かるかもしれない。
仕事が終わり、俺は組合の建物を後にした。駐輪場に向かう途中、ふと、壁に貼られたQRコードに気がつく。これは、セキュリティを解除するための「駐輪場の紙札」の代わりになるものだ。コードをスキャンすると、スマートドアが静かに開いた。
「…おかしいな」
ドアの向こう、俺の自転車の隣に、見慣れない自転車が停まっていた。そして、その自転車のサドルには、見覚えのある使い捨てカメラが置かれている。俺が、ついさっきまで使っていた、あのカメラだ。
背筋に冷たいものが走る。誰かが、俺のカメラを勝手に持ち出し、ここに置いたのか? それとも…。
混乱しながら、俺はそのカメラを手に取った。ずっしりとした重み。レンズを覗き込むと、そこには、見慣れたはずの駐輪場の光景が写っていた。しかし、その写真には、俺の自転車も、あの見知らぬ自転車も写っていない。代わりに、ぼやけた、しかしはっきりと認識できる、誰かの顔が…。
それは、紛れもない、俺自身の顔だった。だが、その表情は、今の俺とはまるで違う。絶望に歪み、何かを叫んでいるような、恐ろしい顔だった。
「まさか…」
俺は、カメラを胸に抱きしめた。eペーパー端末に記録された契約内容、そしてこの使い捨てカメラに焼き付いた残像。どちらが、本当の「現実」なのだろうか。ただ一つ確かなのは、俺の「エージェント」が、今、俺に何かを警告している、ということだ。
遠くで、パトカーのサイレンのような音が微かに聞こえた気がした。