避難所B-4、生存者一名を追加します

──平成0x29A年07月17日 18:00

 西日が差し込む体育館の湿度は、サウナの手前で踏みとどまっているようだった。
 視界の端で、拡張現実(AR)のインジケーターが明滅する。平成0x29A年07月17日、18:00。第7防災ブロック恒例の「大規模災害シミュレーション訓練」は、佳境を迎えつつあった。

「おい、聡。またサーバーが詰まってやがるぞ。これだから中央のない分散処理は好かん」
 脳内で悪態をついたのは、私の担当エージェントである祖父の鉄造だ。元消防団長で、享年七十八。死してなお、防災服の幻影をまとって私の視界に居座っている。
「じいちゃん、静かにして。今、再同期してるから」

 目の前には、パイプ椅子に座った小柄な老女がいる。名前は田中ヨシさん。訓練参加者の一人だ。しかし、私の手元にあるタブレット端末――分厚い耐衝撃ケースに入った業務用PDA――には、無情なエラーコードが表示されていた。
『Status: DECEASED (Sync Error 404)』
 直前のブロックチェーン投票で、訓練シナリオが「堤防決壊」に分岐した瞬間、処理落ちしたシステムが彼女を誤って「死亡者リスト」に放り込んだらしい。このままでは、彼女に訓練用の配給食を手渡すことができない。デジタルの帳簿上、死者は飯を食わないからだ。

「あら、私は死んじゃったのかねぇ」
 ヨシさんは呑気に笑いながら、手元のカセットテープをいじっている。ポータブルプレイヤーから、かすかに演歌のイントロが漏れた。テープが回転する物理的な摩擦音が、蒸した体育館に奇妙に響く。
「すみません、すぐに生き返らせますから」
 私は焦って再同期ボタンを連打した。しかし、内閣ユニットの並行処理リソースは、全国各地で行われている訓練の集計に奪われているらしく、プログレスバーは一ミリも動かない。

「聡、アナログでいけ。紙だ、紙」
 鉄造が叫ぶ。
「紙って言われても、今は全部デジタル管理で……」
「馬鹿野郎! 目の前に婆さんが生きて座ってるんだぞ。証拠なんざそこらへんに転がってるだろうが」

 ヨシさんが、カバンからごそごそと何かを取り出した。丁寧に折りたたまれた、スーパー『ライフ』の特売チラシだ。裏面が白紙になっていて、そこに几帳面な字で何かが書かれている。
「これ、使えるかねぇ?」
 見ると、そこには手書きの「緊急連絡先リスト」と、彼女自身のマイナンバー、そして「アレルギーなし」という情報がびっしりと記されていた。日付は今日だ。
「特売のマグロを見に行ったついでに、書いてきたのよ。ほら、昔はこうやって準備したでしょう」

 その時、私の端末だけでなく、体育館にいる全員のスマートフォンが一斉に、控えめだが厳かな通知音を鳴らした。
『皇室遺伝子ネットワークよりお知らせ:定時安否確認信号を受信しました。国民の皆様の平穏をお祈り申し上げます』
 微弱だが、全国民に共有された遺伝子コードが共鳴する、生存の証明。本来は形骸化した儀礼的な通知だが、このタイミングでは神の助け舟だった。

「……これだ」
 私はヨシさんの折込チラシの裏書きをカメラでスキャンし、同時に遺伝子ネットワークの着信ログを「生存証明トークン」として添付、強制上書きコマンドを打ち込んだ。正規の手順ではないが、今は非常時(の訓練)だ。

『再同期完了。Status: ALIVE』

 端末の画面が緑色に変わる。
「よし、通った!」
「へへ、やるじゃねえか」
 鉄造が満足げに鼻を鳴らした。

 私はパイプ椅子の山から、訓練用のアルファ米のおにぎりを取り出し、ヨシさんに手渡した。
「どうぞ、田中さん。生き返りましたよ」
「あらありがとう。やっぱり、お腹が空くうちは生きてるってことねぇ」

 カセットテープから流れる演歌のサビが、夕暮れの体育館に溶けていく。システム上の不整合は解消されたが、私の額の汗は止まらない。
 チラシの裏の文字と、古い磁気テープの音。そして、遠い血の繋がりのような通知。
 どれか一つでも欠けていたら、彼女はシステムの中で迷子になっていたかもしれない。
 体育館の扉の向こう、茜色に染まる空を見上げながら、私は小さく息を吐いた。ここには確かに、命がある。