銀幕のハッシュ値
──平成0x29A年09月10日 15:50
バイオメトリック改札が、最後の一人分の網膜パターンを読み取って沈黙した。客は全部で七人。平日とはいえ、寂しいものだ。
「拓也、時間よ。あと三分」
頭の中に、姉さんの声が響く。僕は映写室のコンソールに向き直り、震える指でフロッピーディスクをドライブに差し込んだ。カシャ、という頼りない音。こんな骨董品で、いまだに映画のライセンスキーを管理しているなんてどうかしている。
案の定、ディスプレイに赤い警告ウィンドウがポップアップした。『認証エラー:党ドクトリン署名との不整合を検出』。
「またか……」
ため息が漏れる。これで三日連続だ。
「エラーログ、解析するわね」姉さんの声が思考の速度で動く。「……見つけた。タイムスタンプのハッシュ値が、ドクトリンの基準値とわずかにズレてる。未来の日時で署名されてるわ。たった0.02秒だけど」
0.02秒。そのほんの僅かな世界の歪みが、フィルムに光を当てることを許さない。支配者が誰かもわからない『党』のアルゴリズムは、完璧で、そして冷酷だ。
「もう、払い戻しを案内するしかないか」
コンソールの脇に置かれた、オブジェ同然の黒い公衆電話が目に入る。昔、姉さんとこの映画館に来た時、ふざけて受話器を取ったのを思い出した。あの頃はまだ、硬貨を入れればどこかに繋がった。
ふと、ポケットの端末が短く振動した。
【通達:第0x8C4A3内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました。任期は現時刻より5分間です】
「拓也!」姉さんが叫ぶ。「チャンスよ!閣議リストを確認して!」
言われるがまま、目の前のコンソールに閣議画面を呼び出す。いくつもの政策変更リクエストが並ぶ中、一件の議題が目に飛び込んできた。
『第12文化ブロック・上映システム認証アルゴリズムの許容誤差に関する差分承認要求』
これだ。内容は、タイムスタンプのズレを0.05秒まで許容するという、ごく小さな修正案。僕が今、直面している問題そのものだった。
「承認すれば、間に合う」
マウスカーソルを『承認』のボタンに合わせる。だが、その指先は姉さんの声に止められた。
「待って。この申請、提出元のドクトリン署名自体が微妙に破損してる。これを承認したら、あなたの市民評価に傷がつくかもしれない。非整合な決定を下したっていう記録が……」
一瞬、ためらった。僕のささやかな生活が、このワンクリックで少しだけ生きづらくなるかもしれない。でも、映写室の小さな窓から見える客席の暗闇を思った。たった七人でも、この映画を観に来てくれた人たちがいる。
僕は端末の記憶補助アプリを起動した。十五年前の今日の日付をタップする。ホログラムの小さなウィンドウに、若くて元気な姉さんの姿が映し出された。映画のチケットを二枚持って、僕に笑いかけている。『最高の映画なんだから!』
この映画は、姉さんが僕に初めて見せてくれた、特別な映画だった。
「いいんだ」
僕は『承認』ボタンをクリックした。確かな手応えがあった。
コンソールの警告ウィンドウが緑の『認証完了』に変わる。ライセンスキーが読み込まれ、映写機が静かに命を吹き込まれたように唸り始めた。
五分後、総理の任期終了を告げる通知が来た。もう僕は、ただの映写技師だ。
小窓から覗くと、スクリーンに光が灯り、オープニングクレジットが流れ始めていた。七人の観客の横顔が、物語の始まりを告げる光に淡く照らされている。
僕はそっと、そばにあった公衆電話の受話器を取った。耳に当てる。もちろん、ツーという発信音さえ聞こえない。
「姉さん、始まったよ」
頭の中で、姉さんが優しく微笑んだのがわかった。
「ええ。最高の映画よ、拓也」