充電池が満たす、空白の夜

──平成0x29A年02月28日 01:40

平成0x29A年02月28日、午前1時40分。
第13文物保存研究室は、冷たい青白い光を放つモニターと、古びた電子機器の低い唸り声に包まれていた。私、久保田彰は、机に散らばった工具とデータケーブルの間に顔を埋めるようにして座り、目の前のMDプレーヤーを凝視していた。

「徹じいがいれば、こんなところで詰まらないのに」

思わず口から漏れた独り言は、真空パックされたような深夜の研究室に吸い込まれていく。祖父・久保田徹の人格エージェントは、先週から法定倫理検査のため停止中だ。普段なら、私が古い基盤とにらめっこしていると、「彰、回路は生き物だ。もっと語りかけてやれ」などと、耳元で甲高い声で叱咤激励が飛んでくるのだが、今はその席がぽっかりと空いている。

彼の不在は、こんな夜更けに特に堪える。何をするにも、隣に徹じいがいてくれるのが当たり前だった。

今日のターゲットは、錆びついた金属ボディのMDプレーヤー。データサルベージは完了したが、内蔵された記録媒体が特殊な暗号化を施されており、通常の解析ツールでは歯が立たない。平成初期の、それもごく一部でしか流通しなかったプロトタイプらしい。この手の「隠れた逸品」にこそ、党ドクトリンの変遷を読み解く鍵が潜んでいると、所長は言う。

デスクの片隅で、複数の充電式NiMH電池が、専用充電器の中でゆっくりと熱を帯びていた。緑色のLEDが点滅するたび、微かな「シュー」という音が響く。これもまた、過去の遺物だ。最新のデバイスは薄型リチウムイオンが主流だが、研究室ではなぜかNiMHの需要が尽きない。

「ピッ、ピポッ」

自律警備ドローンが、円筒状のボディを滑らかに回転させながら私の背後を通過していく。巡回ルート上の照明を最小限に抑え、静かに、しかし確実に職務をこなす。その規則正しい音が、私の焦燥感をわずかに和らげた。

私は深く息を吐き、頭部に装着した脳波UIのケーブルを調整した。直接脳波を読み取り、思考でインターフェースを操作する。複雑なデータ解析には必須のツールだ。MDプレーヤーから取り出した特殊な記録媒体を、私の脳波UIに直結した解析装置にセットする。

「よし……接続開始」

意識を集中する。情報の奔流が、一瞬にして脳内に流れ込んできた。視覚野にフラッシュバックのように現れるのは、古いテキストログ、奇妙なシンボル、そして断片的な音声データだ。通常のアルゴリズムでは解読できなかったはずの暗号が、私の脳波を介することで、まるでパズルのピースがはまるように組み上がっていく。

そこに現れたのは、過去の「政策変更リクエスト」の議事録の一部だった。
『……社会安定化のため、旧来の文化様式である「平成」をエミュレートし、人々の労働意欲を維持する。内閣ユニット第0x*****より承認。署名、党ドクトリンアルゴリズム。』

私は知っていた。働かずとも暮らせるこの時代に、あえて平成を模した生活様式が維持されていることを。だが、それが80年も前の、それも特定の内閣ユニットの「閣議決定」によるものだったとは。

さらに深く潜ると、別のログが現れた。
『……皇室遺伝子ネットワークの安定稼働には、社会の無意識下での「伝統」の維持が不可欠。党ドクトリンアルゴリズムによる補完。』

「……そうか」

私の手元にあるNiMH充電器の緑色のLEDが、定常光に変わった。充電が完了した合図だ。徹じいがいなくても、デバイスは黙々とその役割を果たす。この研究室も、この社会も、まるで止まることを許されない古い機械のように動いている。

MDプレーヤーのデータは、平成をエミュレートする社会の根底に、党ドクトリンによる明確な意図があったことを示していた。そして、その意図は、天皇制という薄い遺伝子ネットワークの「安定稼働」に繋がっていた。誰も意識しない文化の模倣が、知らぬ間に大きなシステムを支えている。その静かで、しかし確固たる繋がりを、私は初めて肌で感じた。

徹じいは生きていたら何と言っただろうか。
「基本が大事」と。古びた充電池が、平成の遺物が、そして亡き祖父の言葉が、今、私の中で一つの輪郭を結んだ気がした。世界は、思ったよりずっと、丁寧に組み上げられた精密機械だったのだ。