午前四時のポイント残高と、誰かの肺のかたち

──平成0x29A年11月07日 04:20

深夜のナースステーションは、蛍光灯がひとつ切れかけていて、二秒おきにちらつく。

私はその明滅を数えながら、端末の前で固まっていた。

画面には「身分照合エラー:権限不一致。患者デジタルツインへのアクセスを拒否します」という赤い文字が、平成フォントの丸ゴシックで表示されている。

四時二十分。三〇八号室の酒巻さんが呼吸苦を訴えてから、もう十五分が経つ。

デジタルツインを参照できなければ、投薬履歴も肺の三次元モデルも引き出せない。酒巻さんの肺は半年前に一度つぶれていて、そのときの再建データがツインの中にしかない。

「あんた、バーチャル役所のほう試した?」

イヤカフから低い声が響く。母さんだ。正確には、三年前に食道がんで死んだ母の人格エージェント。生前と同じように、私が黙ると勝手にしゃべりだす。

「役所って、こんな時間に」

「二十四時間だよ。あんた自分の勤め先の制度も知らないの」

知ってる。バーチャル役所は確かに常時開庁だ。ただ、未明の時間帯は応答アルゴリズムが簡易モードになる。複雑な照合修正は蹴られることが多い。

それでも他に手がない。

私は端末のブラウザを開いた。iモード風のメニュー画面が出る。上部にはティッカーテープのようにARニュースが流れていて、「第0x7B2A1内閣ユニット 本日の総理大臣:松永カヅキ(64)元漬物工場勤務」と表示されていた。五分だけの総理。今ごろ布団の中で驚いているだろう。

バーチャル役所の窓口に入ると、「身分・権限の再照合申請」のフォームが見つかった。入力する。看護師ID、施設コード、患者番号。送信。

三秒で返ってきた。

「照合元データに差分あり。患者の主登録ブロックと当施設の管轄ブロックが不一致です。閣議署名つき権限委譲が必要です」

閣議署名。あの党ドクトリンの。

母さんが鼻で笑った。「また署名。あのアルゴリズム、もう半分割れてるって近所のおばちゃんも言ってたよ」

「おばちゃんの話はいいから」

私は引き出しを漁った。酒巻さんの紙のファイルがあるはずだ。このホスピスでは、入所時に紙のポイントカードを渡している。調剤薬局チェーンの景品だったスタンプカードの裏面を流用した、手書きの基本情報カードだ。血液型、アレルギー、緊急連絡先。

あった。黄ばんだ厚紙。スタンプ欄には「あと2個で粗品と交換!」の文字がまだ残っている。裏面に、酒巻さんの息子さんの字で「左肺下葉 再建済 ※ツインに詳細」と書いてある。

ツインが見られないから困っている。

「ねえ、カセット」と母さんが言った。

「は?」

「酒巻さん、入所のとき、カセットテープ持ってきてたでしょ。あんた受け取ったじゃない。あれ、音声の健康記録じゃなかった?」

記憶が戻る。確かに。酒巻さんの息子が、父親の経過記録を音声で残していた。前の施設が古い規格しか対応していなかったとかで、カセットに入っていた。私は笑いながら受け取って、ロッカーに入れたまま忘れていた。

私はナースステーションの隅にある再生機を引っ張り出した。ラジカセ。ボタンが物理的に押し込まれる感触がある。

再生。ノイズのあとに、若い男の声。

「——左肺下葉、合成組織で再建。酸素飽和度が九十二を切ったら、まずネブライザー。量は〇・五ミリ——」

必要な情報だった。

私はメモを取りながら、三〇八号室へ向かった。酒巻さんはベッドの上で浅く速い呼吸を繰り返していた。ネブライザーを準備し、マスクを顔にあてがう。白い霧が広がると、酒巻さんの肩がゆっくり下がった。

「……ああ、楽になった」

しわがれた声が霧の向こうから聞こえた。

端末の赤い文字はまだ消えていない。権限の不一致は朝になっても直らないかもしれない。バーチャル役所の閣議署名がいつ降りるかもわからない。

でも肺は、いま動いている。

母さんが小さく言った。「あんた昔から、段取り悪いけど、手だけは早いんだよね」

蛍光灯がまた、ちらついた。

窓の外が、ほんの少しだけ白んでいた。