零時のアクセスキー
──平成0x29A年01月15日 23:50
分厚い防護扉の前で、俺は立ち尽くしていた。
『権限レベル不一致。アクセスを拒否します』
宙に浮かぶ赤いホログラムの文字が、無機質に点滅している。ひんやりとしたコンクリートの匂いと、壁の向こうから響く低周波の唸りだけが、この地下空間が生きていることを示していた。
「またか。週末のパッチで、ドクトリン署名の照合アルゴリズムがズレたんだろ」
鼓膜に直接響く声で、兄さんが言った。もちろん、そこに兄さんはいない。俺の視界の隅で、半透明のアイコンが揺れているだけだ。
「だろうな」
俺は応えながら、ポケットから古びた二つ折りのガラケーを取り出した。パキリ、と心地よい音を立てて開く。物理キーを指先で叩き、緊急オーバーライド用のコマンドを打ち込む。短い電子音とともに、画面に『認証失敗』の文字が浮かんだ。何度やっても同じだった。
「無駄だ。末端の物理キー認証なんて、とっくに信用されていない」
兄さんの声はいつも冷静だ。生きていた頃と同じように。いや、あの事故以来、前よりもっと無感情になった気もする。
俺はため息をつき、ガラケーをポケットにしまった。代わりに、使い込まれたiPod Classicを取り出す。クリックホイールをカリカリと回し、イヤホンを耳に押し込んだ。再生されるのは、何百年も前の、歪んだギターの音。こういう隔離されたストレージは、ネットワーク汚染を嫌う現場作業員にとって最後の砦みたいなものだった。
壁に寄りかかり、目を閉じる。首筋に貼ったナノ医療パッチが、ピリ、と微弱な電気を流した。ストレスレベルの上昇を検知したらしい。
「渉、もうすぐだぞ。第0x4F88内閣ユニット。あと三分」
音楽の合間に、兄さんの声が割り込んでくる。
「ああ、知ってる」
「このゲートの権限修正リクエスト、お前のところに回ってくると思うか?」
「さあな。数十万分のいくつかだろ。天文学的な確率ってやつだ」
俺は目を閉じたまま答えた。誰かが、どこかのユニットで、このリクエストを承認してくれるまで、俺はここで待つしかない。それがいつになるかは分からない。一時間後か、一日後か。
やがて、ギターの音が途切れ、視界の右上に通知がポップアップした。
『第0x4F88内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期は5分間です』
目を開けると、目の前に閣議用の半透明ウィンドウが展開されていた。全国各地から送られてきた、膨大な数の政策変更リクエスト。用水路のバルブ開度の変更、街灯のLED色温度の調整、公共施設の備品購入申請。兄さんの補佐を受けながら、俺は機械的に承認と非承認を繰り返していく。
ほとんどが、俺の生活とは何の関係もない、どこか遠い世界の出来事だ。
残り時間、30秒。リストの最後に、見慣れた識別コードがあるのに気づいた。
『湾岸電力ノード・セクター7・アクセスゲート権限レベル緊急修正』
「……おい、嘘だろ」
兄さんが、本当に驚いたような声を出した。俺は何も言わず、そのリクエストを開く。申請者は、俺自身だ。十五分前の俺。
指を伸ばし、迷いなく『承認』のボタンを押した。
暗号署名が完了した、その刹那。
ゴウ、と重い音を立てて、目の前の防護扉がゆっくりと開いていく。吸い込まれるように、冷たい空気が流れ込んできた。
任期終了の通知が、静かに消える。
俺はiPodのイヤホンを外し、ゆっくりと立ち上がった。ゲートの向こうには、青い保安灯が点滅する暗闇が続いている。
「さて、と。仕事の続きだ」
「……渉。お前、なんとも思わないのか。こんな偶然を」
兄さんの声が、少し震えているように聞こえた。
俺は暗闇を見つめたまま、静かに答える。
「別に。どうせ誰かが開けるんだ。それが俺だった。それだけのことだろ」