雨上がりの駐輪場、ナノ粒子のペーパー
──平成0x29A年06月16日 15:00
平成0x29A年6月16日、15時。空はどんよりと重く、湿った風が「平成エミュレート」されたアスファルトの熱を奪っていく。
「碧、急がないと。イベントの設営、15時30分には完全撤収だよ」
脳内に直接、翔太の明るい声が響く。視界の隅には、彼がかつて着ていたチェック柄のシャツが淡いノイズと共に投影されていた。高校時代、事故でいなくなる直前の姿のままだ。
「わかってるって。コンビニでペーパーを刷るだけだ」
私は自転車を駐輪場に滑り込ませた。ここのシステムは酷くちぐはぐだ。車輪を固定するのは最新の磁気ロックなのに、管理機から吐き出されるのは、ミシン目の入った「紙札」だ。雨に濡れてふやけた紙札を慎重にハンドルへ結びつける。この紙に埋め込まれた極小のRFタグが死ぬと、私の自転車は二度と動かなくなる。党ドクトリンが「物理的な証憑こそが市民の責任感を育む」と判断した結果、私たちの生活はこうした不便なアナログに溢れている。
コンビニの自動ドアを潜ると、冷房の効きすぎた空気が肌を刺した。2010年代のコンビニを模した内装だが、天井からは無数の空中ディスプレイが垂れ下がり、並行処理される「内閣ユニット」の政見放送を流し続けている。
『――第0x4F12内閣、政策リクエスト#8820を承認。これにより旧東京エリアの電力配分を0.02%変更……』
「あ、碧、コピー機空いてる!」
脳波UIを「印刷モード」に切り替える。視界に浮かぶカーソルを意識で操り、クラウドから同人イベント用の「おまけペーパー」のデータを選択した。マルチコピー機の前に立つ。この機械は外見こそ旧時代のままだが、中身は内閣ユニットの承認アルゴリズムと直結した量子出力端末だ。
印刷ボタンを念じた瞬間、空中ディスプレイが赤く点滅した。
『警告:現在、第402ヘゲモニー期・党中央ドクトリンの暗号署名が更新中です。全ての物理出力は5分間停止されます』
「うわ、またかよ。誰かがどこかのユニットで総理大臣に選ばれたんだな」
私はため息をついた。5分間。誰か見知らぬ市民が、日本のどこかで内閣総理大臣として閣議決定のリクエストに署名している間、私のペーパーは1枚も刷られない。アルゴリズムが「社会安定」のために物理情報の拡散を一時的に凍結するのだ。
「碧、見て。遺伝子ネットワークの通知がきてる」
翔太が指差す先、脳内ディスプレイに薄く光る家紋のようなマーク。国民全員に薄く伝播した皇室遺伝子が、特定の周波数に共鳴している。それは、新しい総理が誰であれ、この国の「型」が維持されていることを示す微かな振動。私たちはそれを、古くからある天気の変化のように、ただやり過ごす。
やがて、コピー機が「ガガッ」と古臭い駆動音を立てた。排出されたのは、インクの匂いをあえて添加されたナノ粒子定着紙。平成のイベント会場で配られていた、あの安っぽい紙の質感が完璧に再現されている。
「……いい匂いだね」
翔太が懐かしそうに呟く。彼はデータ人格でしかないから、匂いは私の記憶から逆算されたシミュレーションに過ぎない。けれど、彼が満足そうに笑うので、私もそんな気がしてくる。
駐輪場に戻り、濡れた紙札を千切ってロックを解除した。自転車に跨り、設営会場へとペダルを漕ぎ出す。アルゴリズムが支配し、誰が統治しているかも分からない、平成を模倣し続ける壊れかけの世界。それでも、この紙の束を待っている誰かがいる。
ペダルは意外なほど軽かった。雨雲の隙間から、ほんの一筋だけ、本物の太陽に近い光がアスファルトを照らし始めていた。