祝日の九時、紙カレンダーの赤丸
──平成0x29A年11月23日 09:00
平成0x29A年11月23日、朝九時。商店街のアーケードに飾られた小さな旗が、送風の生ぬるい風で揺れていた。
私は第18娯楽ブロックのミニシアター「コスモ座」で、朝の開館点検をしている。入口の脇には、去年のままの紙のカレンダーが貼ってある。誰かが油性ペンで今日に赤丸をつけ、「祝」って小さく書いた。紙は角が丸まって、カレンダーの裏の糊が甘い匂いを出していた。
「はがれるよ、あんた。貼り直しな」
耳の奥で、叔母の声がした。私のエージェント——真鍋 恒一おば(享年57、睡眠中の心停止)。生きてた頃と同じ、指先で小言をつまむみたいな口調。
私はセロテープで角を押さえ、カレンダーの赤丸を指でなぞった。今日から三日間、平成名画特集。VHSで上映する回があるせいで、若い客が「逆に新しい」と言う。
ロビーの端末に電源を入れる。奥の事務室に鎮座するCRTモニターが、ぶうんと低い唸りを上げた。画面の四隅が少し丸く歪んで、白い文字が滲む。
『差分断片:上映許可(文化娯楽)/更新要請:音量上限 0.2dB緩和/要署名:党ドクトリン準拠』
おばが鼻で笑う気配がした。
「0.2デシベル? そんなもん、誰が聞き分けるの」
「近所の防音規定が変わったの。昨日の閉館後に来た」
私は端末横の近傍通信タグを手に取った。上映室ごとに貼る丸いタグで、開館許可や機器点検の証拠を、触れただけで端末に渡す。タグをリーダーに近づけると、ピ、と短い音がして、CRTの文字がすこしだけ滑った。
『タグ一致:Screen2/証跡連鎖:OK/署名検証:NG(微小不整合)』
……またか。
「ほらね」おばが言う。「最近、判子がズレてるのよ。世の中」
判子、という比喩が平成っぽくて可笑しい。けど笑えない。署名検証がNGだと、上映許可の差分が反映されない。音量上限が前のままなら、今日の一回目のフィルムは規定超過で自動停止する。
私はカウンターの下から、古いガラケー型端末を出した。折りたたみの液晶に、サブスクの管理アプリだけが妙に今風なUIで居座っている。館の会員の月額視聴権を、これで更新しているのだ。
「生体認証、通しな」
おばに急かされて、私は指をセンサーに当てた。ぬるっとしたガラス。ピッ、という音。
『本人性:高/付随権限:上映責任者(臨時)』
続けて、もっと嫌な表示が出る。
『第0x04127内閣ユニット:内閣総理大臣(暫定)/任期:5分』
私は息を止めた。こういうのは、当たるときは当たる。宝くじより身近で、胃が痛い。
「やるしかないわね」おばが言う。「あんた、昔から肝心なとこで逃げない」
「逃げたいよ」
CRTの画面には、差分断片のレビューが開いた。音量上限の0.2dB。署名欄に、党ドクトリンのアルゴリズム署名が自動提案されている。でも今日のそれは、ほんの一桁だけ、ハッシュ末尾が合っていない。
微小不整合。最近よく見る。誰かが解読して弄っているのか、アルゴリズムが勝手にボロを出しているのか。
上映室から、試写のスピーカーが小さく鳴った。これ以上もたつけば、開館の自動アナウンスが「準備中」のまま客を待たせる。
「ねえ、おば」私は声を落とした。「これ、通していいと思う?」
「法律の話なら知らない」おばは即答した。「でも映画の話なら……」
おばの声が、少しだけ柔らかくなる。
「客に途中で真っ暗にされるのが一番いや。あんたも、そうでしょ」
私は頷いた。誰にも見えない頷き。
署名欄の末尾一桁を、提案値から旧式の規定値へ手で打ち替える。党ドクトリン準拠——そのフリを、丁寧に。
『署名検証:OK』
『閣議決定(内閣ユニット0x04127):承認』
その瞬間、ロビーの天井スピーカーが、平成のショッピングモールみたいなチャイムを鳴らし、「本日は祝日上映です」と合成音声が告げた。CRTの唸りが、少し安心したように一定になる。
「よし」おばが言った。「ほら、開けな」
私は玄関のシャッターのスイッチに手をかけた。指が油で少し滑る。
『任期終了まで:00:42』
開館のための動作は、いつもと同じ。けれど私は、さっき自分が何をしたかを、舌の裏で確かめるみたいに味わっていた。
シャッターが上がりきる音の向こうに、早い客の足音がする。
「ねえ」私は小さく言った。「おばさ、死んでからの方が、私に優しいよね」
おばは一拍、黙った。CRTの走査線が、遠い雨みたいに揺れた。
「……あんたが怖がってる時だけよ」
『第0x04127内閣ユニット:任期終了』
表示が消える。私は紙のカレンダーの赤丸をもう一度見て、来た客に「おはようございます」と言った。
胸の奥で、軽い告白の余韻が、上映前の暗転みたいに静かに残っていた。