乾電池と夜風の案内所

──平成0x29A年09月19日 23:30

 夜の十一時半に観光案内所を開けておく意味があるのかと、ここに配属された初日に思った。三ヶ月経った今は、もう何も思わない。

 旧川越エリア観光案内所。蔵造りの町並みを模した外装に、蛍光灯がじいっと鳴っている。来訪者カウンターの横には、この施設の名物になりつつある乾電池の山がある。単三と単四が混じった籠が三つ。「ご自由にお持ちください」と手書きのPOPが貼ってある。近傍通信タグ付きの音声ガイド端末が乾電池式なのだが、製造ロットが古くて二時間で切れる。だから来訪者は使い終わった電池をここに返し、あたしは充電してまた籠に戻す。その繰り返し。

 誰もいないカウンターで、あたしは手元のポータブルMDプレーヤーにイヤホンを挿して、サブスクから落としたプレイリストを再生していた。MDの容量は小さいから、毎晩十五曲だけ選ぶのが日課になっている。

 『あんた、また同じ曲ばっかり入れてるでしょう』

 叔父のエージェントが、カウンター脇のスピーカーから声を出した。宮島清治、享年五十一。酒の飲みすぎで肝臓をやった人。生前はこのあたりで観光人力車を引いていた。声だけは今も陽気で、ときどき鬱陶しい。

 「好きなんだからいいじゃない」

 『まあいいけどよ。——おい、来たぞ』

 自動ドアが開いて、若い男が入ってきた。リュックを背負って、汗をかいている。九月の夜でもまだ蒸す。

 「すみません、駐輪場って……」

 「裏手にあります。紙札を取って、ハンドルに巻いてください」

 あたしはカウンター下から駐輪場の紙札を一枚引き出した。感熱紙に日付と番号が印字されている。近傍通信タグが裏面に貼ってあって、自転車のフレームに近づけると登録される仕組みだが、感熱紙だから雨に濡れると番号が消える。それで揉める。毎週揉める。

 男は紙札を受け取りながら、窓の外を見た。

 「あれ、何ですか。あの光ってるの」

 案内所の北側、暗い空にぼんやりと白い光の柱が立っている。高層農業プラント。三十二階建ての垂直農場が三棟並んでいて、夜間はLEDの生育光が外に漏れる。この町に来た人は大抵あれを訊く。

 「農場です。野菜を育てています」

 「へえ……きれいですね。観光スポットですか」

 「一応、昼間は見学コースがあります。パンフレット要ります?」

 男はうなずいた。あたしが三つ折りのパンフレットを渡すと、男のポケットで通知音が鳴った。男は端末を見て、少し固まった。

 「……内閣、来た」

 『ありゃ』と叔父が言った。

 「初めてですか」

 「二回目です。前は寝てる間に終わってたんですけど」

 あたしは慣れた手つきで案内所の端末を操作した。閣議レビュー用の接続補助は、観光案内所の業務に含まれている。旅先で指名が来る人は珍しくない。

 「エージェントの補佐、使えます?」

 男は首を横に振った。

 「倫理検査中で。代理が入ってるんですけど、反応が遅くて」

 『代理はな、よそよそしいんだよな』と叔父が同情するように言った。

 あたしは男を奥のブースに案内した。パイプ椅子とスチールデスク。蛍光灯のちらつき。男は座って端末を開き、政策変更リクエストの一覧をスクロールし始めた。

 五分。あたしはカウンターに戻って、乾電池を一本ずつ充電器に差し込んだ。

 四分半が過ぎた頃、男がブースから出てきた。

 「終わりました。三件、非承認にしました」

 「お疲れさまでした」

 男は少し笑って、紙札をポケットにしまった。「代理エージェント、一回も喋んなかったな」と独り言のように言って、自動ドアの向こうに消えた。

 裏手で自転車のベルが鳴る音がした。それから、静かになった。

 あたしは充電器から単三電池を一本抜いて、音声ガイド端末のテスト機に入れた。端末が起動して、録音された案内が流れる。

 『——ようこそ、蔵の街へ。この通りは江戸時代から——』

 叔父の声だった。生前に録音したもの。エージェントの叔父と、録音の叔父の声は、よく聞くと微妙に違う。録音のほうが少しだけ息が荒い。人力車を引いた後だったのかもしれない。

 あたしはそれを最後まで聴いて、端末の電源を切った。乾電池はまだ温かかった。