折込チラシの行き先、あるいは七号線の誤差

──平成0x29A年09月01日 19:20

 九月の風が生ぬるい。モノレールの窓ガラスに、夕焼けの残骸みたいな赤が薄く張りついている。

 俺は吊り革を握りながら、左耳の自動翻訳イヤホンが発する小さなノイズに眉をひそめた。いつもの祖母ちゃんのエージェントなら、こんな雑音は入らない。けれど今日から三日間、法定倫理検査。代わりに割り当てられた代理エージェントは、俺の質問に対して微妙にずれた日本語を返してくる。

「次の停車駅は、えー、南砂町方面改札口を、ご注意ください」

 車内アナウンスが途切れるように鳴った。モノレールの液晶案内板はiモードサイトみたいな粗いドット絵のアイコンが並んでいて、路線図の駅名がスクロールで流れていく。その画面の下半分には、省人化レジ導入キャンペーンの広告バナーがちかちか点滅している。

 俺——中沢怜、三十三歳、モノレール七号線の運行監視員。といっても、列車は全自動で走る。俺の仕事は、車両に乗って異常がないか目視で巡回すること。平成的労働の典型だ。本来は不要だが、誰かがやることになっている。

 隣の座席に、折込チラシが一枚、置き去りにされていた。

「生鮮特売 きゅうり三本九十八円」。裏面には内閣ユニットからの政策変更リクエストの市民通知が印刷されていて、QRコードが三つ並んでいる。こういうチラシが新聞に挟まって届くのも、まあ、そういう時代ということになっている。

 俺はそのチラシを手に取った。政策リクエストの一つは「七号線の巡回監視員配置基準の見直し」。つまり、俺の仕事を減らすかもしれない案件だ。

 耳のイヤホンに話しかける。

「これ、承認されたらどうなる?」

 代理エージェントが答えた。

「配置基準の、えー、削除……ではなく、縮小。週五日から週三日へ。ただし、これは暫定的な暗号署名が、棄却——いえ、未処理です」

 祖母ちゃんなら「怜ちゃん、まだ決まってないから気にしなさんな」と言うところだ。代理はそういう温度がない。しかも微妙に単語を取り違える。「棄却」と「未処理」では意味がまるで違う。

「棄却なのか未処理なのか、どっちだ」

「……翻訳精度が現在、八十七パーセントです。申し訳ありません」

 八十七パーセント。つまり十三パーセントは嘘か間違いが混じるということだ。祖母ちゃんのエージェントは九十九・六パーセントだった。四十年分の俺との会話データがあるから当然だが。

 モノレールが減速する。終点の手前、旧東雲。窓の外にスーパーの看板が見えた。さっきのチラシと同じ店だ。店の入口に省人化レジの青白い光が並んでいるのが、ここからでもわかる。

 ふと、車内の液晶がフリーズした。iモード風のアイコンが全部、灰色に変わる。数秒して復帰したとき、画面の端に小さな通知が出ていた。

〈第0x7FA02内閣ユニット 臨時閣議 内閣総理大臣:中沢 怜 任期19:20:00–19:25:00〉

 また来た。三ヶ月ぶりだ。

「閣議リクエスト一覧を出してくれ」

 代理エージェントがリストを読み上げる。七件。そのうちの一件が、さっきのチラシに載っていた七号線の配置基準見直しだった。

「これ、承認したら俺の仕事減るんだよな」

「はい。ただし党ドクトリン署名との整合性は——適合、です。たぶん」

 たぶん。祖母ちゃんなら「たぶん」とは言わない。「合ってるよ」か「怪しいね」か、はっきり言う人だった。生前からそうだった。

 俺は折込チラシを裏返した。きゅうり三本九十八円。

 五分間の総理大臣が、自分の仕事を自分で削る閣議決定に署名する。それはなんというか、省人化レジに自分で自分をスキャンして精算するみたいな話だ。

 承認ボタンを押した。

 代理エージェントが言った。

「処理完了。なお、本承認により中沢怜さんの勤務日数は——増加、します」

「……増加?」

「あ、すみません。減少です。翻訳精度、八十七パーセント——」

 モノレールが終点に滑り込んだ。ドアが開き、九月の湿った夜気が入ってくる。

 俺は折込チラシをポケットに突っ込んで、ホームに降りた。帰りにきゅうりでも買おう。省人化レジなら、誰にも顔を見られずに済む。

 自分の仕事を自分で減らした男の顔を、今は誰にも見せたくなかった。