領収書の重さ、フィルムの遅延
──平成0x29A年12月07日 08:50
朝8時50分、電力配給センターの窓口で僕は手書き領収書の束を数えていた。
ペンが走る音。昨日の引き継ぎ帳には「第0x4A7F内閣ユニット、本日午前8時55分より稼働予定」と書かれていた。あと5分だ。
「兄さん、その領収書、デジタル円ウォレットで決済したやつ?」
耳のイヤホンから、亡き兄・健太郎の声がする。元々は銀行員だった兄は、今も僕の補佐エージェントとして、経理周りの判断を指示してくれる。ただし今日は代理エージェント期間。兄の倫理検査が終わるまで、代わりの音声ガイダンスが入っている。そのせいか、声が少し硬い。
「そう。でも領収書は紙で欲しいって言う人がまだいるんだよ」
デスクの隣には古いフィルムカメラが置いてある。配給センターの取引記録を撮影するための道具だ。デジタルじゃなく、フィルム。現像に二週間かかる。誰が決めたのか知らないが、このシステムはずっと続いている。
8時54分。
リモート診療端末が鳴った。センター長からの通話だ。画面に顔が映る——いや、映らない。音声だけ。
「配給量の差分断片が届いた。今月の電力割り当て、5%減らす必要があるらしい。内閣ユニットからの指示だ」
「え、今から?」
「今からだ。5分間の職務だから、決定は即座にくる」
そこだ。この奇妙さ。
僕は誰かの5分間の総理大臣職を支える側だ。その人物は、今この瞬間、どこかの第0x****内閣ユニットで目を覚ましたのだろう。5分間だけ、国政を担当する。その決定は暗号化されたドクトリンを通して、こういう末端の指示として僕に届く。
領収書の束を見下ろす。手書きだ。インクの匂いがする。
フィルムカメラを手に取った。配給指示票を撮影する。シャッターを切った瞬間、デジタル円ウォレットの通知が来た。——「差分断片処理手数料:¥0.037、決済完了」
0.037円。
それは、その0.037円の価値を決定した5分間の総理大臣が、本当に存在したのか、それとも単なるアルゴリズムの出力なのか、誰にも判らないということを象徴していた。
8時59分。
リモート診療端末の画面に、新しい指示が表示された。——「差分断片キャンセル。前の指示は無効」
別の誰かが、別の5分間で、逆の決定をしたのだろう。
僕は手書き領収書をもう一枚、新しく書き始めた。修正液もない、古いボールペンで。フィルムカメラは相変わらず机の上にあり、撮影済みのフィルムは現像待ちのまま。二週間後、僕は何が撮られていたのか知ることになる。その時には、別の5分間の決定が、また別の世界を作っているはずだ。
兄の代理ガイダンスが言った。
「領収書と円ウォレット、どちらが本当の記録だと思いますか?」
僕は笑った。
「両方ですね。どちらも」
「正解。ただし、その答え自体も、明日には無効になるかもしれません」