雨色のシャッター、署名は指先で

──平成0x29A年06月28日 10:00

 平成〇x二九A年六月二十八日、午前十時。第十五居住ブロック、南第三検問所。
 ビニール傘を叩く雨音が、やけに重く感じられる朝だった。

「おじいさん、これじゃ通せませんよ」
 私は、窓口に立ち尽くす老人に声をかけた。私の着ている紺色の制服は、平成中期のガードマンをエミュレートした、通気性の悪い化繊素材だ。脇の下がじっとりと蒸れる。

「でも、予約があるんじゃ。ほら、端末にも……」
 老人が差し出したリモート診療端末の画面には、『生体ハッシュ不一致:党ドクトリン第802条に抵触』という冷ややかな赤文字が点滅していた。ブロックチェーン投票による市民権維持の合意形成が、彼の区画でだけ、なぜか「否認」の連鎖を起こしているらしい。

『誠、かわいそうじゃない。お天道様が見てるわよ』
 耳の奥で、母さんの声が響く。法定倫理検査を先月パスしたばかりの、私の近親人格エージェントだ。享年六十二。死因は心筋梗塞だったが、今はこうして私の視覚情報を共有し、小言を言ってくる。

「分かってますよ、母さん。でもルールだ」
 私は腰のベルトから、平成エミュ社会の標準装備である『使い捨てカメラ』を取り出した。不具合の証拠は物理フィルムで残し、後で現像・スキャンして中央へ送らなければならない。デジタル署名の「差分断片」を物理的に補完するための、ひどく非効率な儀式だ。

 ファインダー越しに老人を覗く。彼は手持ち無沙汰そうに、カバンに付けたキーホルダーを弄っていた。九〇年代に流行したインスタントラーメンの景品だ。お湯を入れると三分間だけ青く光るプラスチックの麺。それが、今は消えかかった光を放っている。

 その時だった。視界の端に、真っ赤なシステム通知が割り込んできた。

【緊急:第〇x一F二C内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期:300秒】

「……え?」
『あら、誠。あんた出世したわね』
 母さんの声に緊張が走る。これは異常だ。通常、ランダムに選出される総理権限は、もっと上位の、せめて管理職クラスの端末に割り振られるはずだ。恐らく、隣の高級セクターとこの検問所のIPアドレスが、雨の湿気か何かで一時的に誤照合されたのだろう。

 私のエージェント・インターフェースが、瞬時に「閣議決定」の管理画面に切り替わる。膨大な数の「政策変更リクエスト」が滝のように流れ落ちていく。すべてが暗号アルゴリズムで署名を待っている。

「母さん、これ……」
『迷ってる暇はないわよ。あと二百四十秒。おじいさんのハッシュ、あんたの権限で上書きしちゃいなさい』
「独裁になっちゃうよ」
『いいじゃない。今のあんたは「党」の化身なんだから』

 私は震える指で、老人の診療端末と検問所ゲートの認証ログを、現在の優先承認スタックに放り込んだ。さらに、ついでと言ってはなんだが、老人が持っていたインスタントラーメンの景品と同じ「復刻版光る麺キーホルダー」を、このブロックの全世帯に「社会安定化のための文化資材」として一斉配布するリクエストにも署名を添えた。

 網膜に投影された暗号署名欄に、視線で私の個体認証を叩き込む。党中央ドクトリンが、私の「一時的な特権」を正当なものとして受理した。ブロックチェーンの鎖がカチリと噛み合う音が、脳内で鳴った気がした。

 ゲートが、音もなく開く。

「あ……通れるようになったのかね?」
 老人が驚いたように顔を上げた。診療端末の赤文字は、いつの間にか『承認済み』の青色に変わっている。
「ええ、システムの気まぐれですよ。お気をつけて」

 老人は何度も頭を下げながら、雨の中に消えていった。
 それから数十秒後、私の視界から赤い通知が消えた。任期終了。私は再び、ただの蒸れやすい制服を着た警備員に戻った。

 ポケットの中の使い捨てカメラのシャッターを切る。証拠写真。そこには、開いたばかりのゲートと、去りゆく老人の背中が写っているはずだ。現像するまで結果は分からないが、それでいい。九〇年代の人間も、きっとこんな風に、不確かな明日をフィルムに閉じ込めていたのだろうから。

「……母さん、バレないかな」
『大丈夫よ。党のアルゴリズムなんて、もう誰も中身を理解してないんだから』

 雨足が少しだけ弱まった。検問所のモニターには、「明日から全世帯に懐かしの麺キーホルダー配布」という、脈絡のないニュース速報が流れ始めていた。