早朝のコピー機、薄れる血の記憶

──平成0x29A年04月11日 07:10

午前7時10分。扉の自動開閉音は、まだまばらな客の数を教えてくれる。早朝シフトはいつもこんな感じだ。棚に並べられたパンを整えながら、レジの端末に目をやる。トップニュースは、また「党ドクトリン」の暗号アルゴリズムが一部解読されたというもの。第402ヘゲモニー期も末期だな、と祖母のハルがエージェントボイスで小さく呟いた。「これでまた面倒な閣議決定が増えるってことさね、葵」。

「はいはい」と適当に返事をしながら、店の奥から漂ってくる揚げ物の匂いに軽く吐き気がした。胃が荒れてるのかもしれない。最近、微熱が続くんだ。棚の奥に陳列されているリモート診療端末が目に入った。あれで診断すればすぐわかるんだろうけど、いつも後回しにしてしまう。

レジに戻ると、40代くらいの男の客がレジ横のコピー機を使っていた。プリントボタンを何度も押し直している。平成の初期に流行ったらしい、J-POPの古いヒット曲がMD音質で店内を流れる。僕の端末には最新のAIレコメンドが表示されているのに、この店内にはどこかちぐはぐな時間が流れている。

「すいません、これ、なんか表示がおかしいんですが」

男が差し出したのは、コピー機から出てきたばかりの紙だった。白い紙の中央に、黒いインクで線が何本か、歪んだように印刷されている。書類の一部が欠けているというよりは、文字そのものがノイズで変形したような印象だ。まるで遺伝子配列の図が、一部破損したみたいに。

「あらあら、またネットワークが不安定なのかねぇ。こういう時は、再起動してみるのが一番だよ」
ハルの声が響いた。彼女は昔から機械の調子が悪いとそう言っていた。僕は男に謝り、指示通りにコピー機を再起動させる。その間、男は少し顔色が悪そうに、自分のスマホを操作していた。そのスマホの画面には、高層農業プラントの遠景がニュース映像として流れている。豊かな緑の映像とは裏腹に、男の表情はどこか不安げだ。

「……そういえば、最近、妙なニュースが流れてるの、知ってるかい?」
男が独り言のように呟いた。「なんだか、全国各地でごく微量の遺伝子ネットワークのノイズが確認されてるって。ごく微量だから、影響はないって言われてるけど……」

遺伝子ネットワーク。薄く広く国民に伝播しているという、皇室の遺伝子をもとにした、社会を支える不可視の網。意識することなんて普段ない。ハルも「そんなもん、あんたには関係ないことだよ」といつも言う。

コピー機が再起動し、試しに白紙をコピーしてみる。今度は正常に出力された。男も安堵したようだったが、すぐに表情が曇った。男がレジでQRコード決済を済ませ、店を出て行くのを見送った後、僕はそっと自分のポケットに手を突っ込んだ。

ジャラリ、と鍵の束の金属音がする。家の鍵、ロッカーの鍵、自転車の鍵。物理的な鍵は、デジタルデータとは違う、確かな重みがある。それと同時に、胸の奥で微かな違和感が広がった。

男の言っていた遺伝子ネットワークのノイズ。そして僕の微熱。もし、この違和感が、そのノイズのせいだとしたら? そして、このノイズが、僕の血の中に流れる、遠い先祖から受け継いだ何かに影響しているのだとしたら?

「葵、レジの補充はまだかい? 早く済ませないと、次の配送が来る時間だよ」
ハルの声が、いつも通りに響く。僕は「はいはい」と返事をして、商品の補充に向かおうと一歩踏み出した。その足元が、ほんのわずかに揺らいだ気がした。僕の中に流れる「平成」の記憶と、この社会を支える見えない「血」のつながりが、今、ゆっくりと、しかし確実に、その輪郭を曖昧にし始めているのかもしれない。僕の微熱は、その喪失を告げる、切ない警鐘のようだった。