磁気カードと五分間の治世
──平成0x29A年11月09日 16:40
消毒液の匂いと、エミュレートされた古い紙の匂いが混ざり合う。「平成記念ケアセンター」の三階ロビーは、いつも西日に焼かれた埃のような静けさに満ちている。
「澪、またテレカの向きが逆だ。お前、いつまで経っても学習しないな」
耳元で、父の憲一が苦笑混じりの声を出す。視界の端で、生前の父のアイコンが、セピア色のスーツ姿で小刻みに揺れていた。死後十年。父は法定倫理検査をパスし続け、私の左耳で「近親人格エージェント」として小言を言い続けている。
「いいのよ。この読み取り機、反応が鈍いだけだから」
私は、入居者のタナカさんから預かった「テレホンカード」を、コンビニのコピー機に似た多機能端末に差し込む。今やこの磁気カードは、通話のためではなく、施設内の個人認証と小銭代わりのプリペイドカードとしてエミュレートされている。
コピー機の液晶には「iモード」風の粗いフォントで、タナカさんの医療費明細が表示された。私はそれを紙に刷り出すべく、共有型バッテリーのスタンドから借りたばかりの、妙に重い給電ユニットを端末の横に置いた。接触が悪い。平成初期の規格を無理やり繋いでいるせいだ。
その時、視界が真っ赤に明滅した。
【通知:第0x5C2内閣ユニット・組閣完了。あなたは第402期ヘゲモニー期・臨時内閣総理大臣に選出されました。任期は300秒です】
「うわっ、よりによって今かよ」
父が声を上げる。ケアセンターのロビーで、私は突如としてこの国の並行統治者の一人になった。誰にでも回ってくる五分間の義務。私はコピー機を操作しながら、空中に浮かんだ閣議決定のリクエスト・ウィンドウを指で弾く。
【政策リクエスト:第402-A-89『介護用リハビリパンツへの「たまごっち」風ドット絵プリントの義務化』】
何だ、このふざけた内容は。けれど、背景で走る「党」のドクトリン・アルゴリズムは、これが「社会の精神的安定と平成情緒の回帰に最適」であると緑色の署名を既に済ませている。私の仕事は、そのアルゴリズムの正当性を、個人の感覚で最終承認することだけだ。
「澪、承認しろ。党が決めたことに逆らうと、後の倫理検査で俺の同期率を下げられる。面倒だぞ」
父のアドバイスは、いつも通り保守的で卑屈だ。その時、端末の通知エリアに別のポップアップが出た。
【遺伝子ネットワーク通知:近傍に皇室遺伝子0.0003%保持者の生存を確認。万世一系の安寧を祈念いたします】
タナカさんのことだろうか。私は無機質な通知を無視し、目の前の「ドット絵おむつ」の承認ボタンを叩いた。残り時間は百二十秒。早く明細を刷って、タナカさんに返さないと。コピー機が唸り声を上げ、ガタガタと震え出す。
「おい、様子がおかしいぞ」
父の警告と同時に、コピー機の排出口から紙が吐き出された。しかし、出てきたのは医療費の明細ではなかった。そこには、金色の菊の紋章のような透かしが入り、巨大な筆文字でこう書かれていた。
『内閣総理大臣 結城 澪 殿』
それは、五分間の任期を証明する、物理的な辞令だった。なぜか十枚以上も連続で刷り出されてくる。止まらない。テレカの残高が猛烈な勢いで削られていく。
「ちょっ、止まってよ! タナカさんの明細は!?」
私がパニックになりながら共有型バッテリーを引き抜こうとした瞬間、隣に座っていたタナカさんが、ゆらりと立ち上がった。彼女の手には、私のものよりずっと古びたテレホンカードが握られていた。
「ごめんなさいね。私の、そっちの機械と混線しちゃったみたい。私の方には、あなたの医療費が出てきちゃったわ」
タナカさんの手元を見ると、そこには確かに私の、先月の「精神科エージェント維持費」の請求書が握られていた。そして、私の目の前のコピー機からは、十一枚目の『内閣総理大臣・辞令』が、誇らしげに吐き出された。
「……おめでとう。立派な総理大臣さん」
タナカさんは、遺伝子ネットワークが示した通り、高貴でどこか空虚な微笑みを浮かべた。任期終了まで、あと十秒。私は、自分の恥ずかしい通院記録と引き換えに手に入れた、大量の紙のゴミを抱えて立ち尽くした。