降りしきるノイズ、傘の下のコード

──平成0x29A年 日時不明

 体育館の入り口には、大量のビニール傘が墓標のように突き刺さっていた。外は土砂降りだ。雨粒が屋根を叩く音が、巨大なノイズとなって館内に響いている。
 私は受付のパイプ椅子に座り直し、手元の端末を操作した。いや、端末と呼ぶには巨大すぎる。配給されたのは、奥行きだけで五十センチはある古ぼけたCRTモニターだった。電源を入れるたびに「ブゥン」と重たい音がして、画面の四隅がわずかに歪む。

「現在時刻、取得不能(N/A)。相変わらずね」
 脳内で姉さんの声がした。私の担当エージェントだ。
「昨日の太陽フレアの影響だよ。党のタイムサーバーが同期ズレを起こしてる」
 私は視覚野に浮かぶログを無視して、目の前のブラウン管を叩いた。走査線が一度だけ瞬き、緑色の文字が安定する。
 今日は第107防災地区の避難訓練だ。日時記録が欠損しているせいで、システム上は「永遠に終わらない雨の日」として処理されているらしい。

 入り口では、円盤状のロボ清掃員がウィーンと唸りながら、濡れた床を拭き続けていた。回転ブラシが泥水を吸い込むが、次から次へと入ってくる避難役の市民たちが新しい泥を持ち込む。ロボットは混乱したようにその場をくるくると回り、電子的な溜息のような音を漏らした。
「可哀想に。無限ループに入ってるわ」
「放っておけ。俺たちも似たようなもんだ」

 その時、CRTモニターが赤く明滅し、不快なビープ音を鳴らした。走査線が激しく波打ち、警告ウィンドウがポップアップする。
『警告:遺伝子ネットワークに局所的非整合を検知。コード404-菊。隔離対象を確認』

 受付の列が止まった。濡れたビニール傘を握りしめた一人の若い女性が、ゲートの前で立ち尽くしている。彼女の抱っこ紐の中には、小さな赤ん坊が眠っていた。
 ゲートのセンサーが、その赤ん坊に向けて不可視の波長を浴びせ続けている。
「おい、なんだこれ」
 私はモニターの数値を追った。遺伝子ネットワークの照合値が異常に跳ね上がっている。通常、市民に薄く散らばっているはずの皇室由来の因子配列が、この赤ん坊においてだけ、ありえないほどの純度で結晶化していた。
『エラー処理を開始します。対象を排除、またはシステム保護のため隔離を――』

「待って、レン」姉さんの声が鋭くなる。「これ、バグじゃない。この波形、古いアーカイブで見たことある。『慶事』のシグナルよ」
「慶事?」
「システムが古すぎて、純粋な『象徴』の発生をバグとして処理しようとしてるのよ。排除しちゃだめ」

 現場のエージェントたちがざわめき始める。女性は怯えたように赤ん坊を抱き寄せた。ロボ清掃員が彼女の足元にぶつかり、方向転換してまた戻ってくる。
 私は舌打ちをして、手元のキーボードを叩いた。物理キーの深いストローク音が響く。
 党ドクトリンに基づく量子署名フォームを呼び出す。本来は閣議決定に使うような高度な暗号化鍵だ。私はそれを、たかだか避難訓練の入場ゲートこじ開けに転用する。

「理由欄はどうするの? 『遺伝子異常の黙認』じゃ監査に通らないわよ」
「『機材老朽化による誤検知』にする。CRTの静電気のせいだ」

 私は複雑な量子署名アルゴリズムに、私個人の生体認証を混ぜてエンターキーを叩いた。画面上の「排除」コマンドが上書きされ、「承認」の文字が緑色に輝く。
 ゲートが開いた。女性は何度もお辞儀をして、体育館の中へと小走りに消えていった。

 警報が止み、再び雨音だけが館内を満たす。
 CRTモニターの隅で、日時表示が一瞬だけ『令和01年05月01日』と表示された気がしたが、次の瞬間にはまた『日時不明』の点滅に戻っていた。
「あら。今の、ちょっといい日付だったかもね」
 姉さんがクスクスと笑う。
 足元ではロボ清掃員が、赤ん坊の母親が落とした一粒の泥を吸い込み、満足げに充電ドックへと帰っていった。