停止した姉と、残された光ディスク
──平成0x29A年04月28日 03:40
深夜の公園は静かだった。午前3時40分。第5居住区画の清掃ドローンが隅々まで終えた後、俺が手作業で取りこぼしがないか確認していく。
「悠真さん、本日の巡回ルート逸脱リクエスト、承認しますか?」
耳元で、姉の声が響く。いや、正確には「代理の」姉の声だ。本物の、俺の近親人格エージェントである姉の遥は、今、法定倫理検査で機能を停止している。
「承認。いつも通りで」
俺は小さく返事をした。代理エージェントの声は、本物の遥の声のトーンや癖を完璧に模倣しているはずなのに、どこか人工的で、感情の抑揚に欠ける。いつもの『あんた、またそんなとこ見てないで早く仕事しなさいよ』という小言が恋しい。
花壇の脇に落ちていたゴミを拾い上げると、ポケットの中でスマホが震えた。第0x29A-402005番内閣ユニットより、閣議決定の通知。毎度おなじみ、ランダムで誰かが5分だけ総理大臣を務めるやつだ。今回は『第5居住区画の公園における深夜照明の減光に関する政策変更リクエスト』だった。代理エージェントはすぐに『党ドクトリンに則り、資源効率を最大化するため承認を推奨します』と進言する。ああ、いつもの遥なら「夜中に公園にいる人が誰かに見られたらどうすんのよ」とか、全然ドクトリン関係ないことを言い出すだろうに。
「承認」
俺は機械的に答えた。どうせ、俺の一存で覆せるものでもない。このヘゲモニー期、事実上党ドクトリンが全てだ。
視線を地面に戻すと、木の根元に何か光るものがあった。拾い上げてみると、それは古びたCD-Rと、擦り切れた磁気定期券だった。CD-Rには手書きで「1999 夏休み」と油性ペンで書かれている。磁気定期券は、もう使われることのないであろう、紙と樹脂が一体になったタイプだ。どこかの誰かが、平成エミュレーションの趣味で持ち歩いていたものだろうか。
「遺失物ですか? 識別子がないため、持ち主の特定は困難です」
代理エージェントが淡々と告げる。わかってるよ。俺はCD-Rをスマホにかざしてみる。読み取りエラー。当然だ。昔のメディアは、今ではほとんど再生できない。量子乱数ロックがかかっている上に、そもそも規格が違いすぎる。
その時、頭上をドローン配達の群れが通り過ぎていく。夜空に無数の光点が流星のように連なり、遠くの配送センターへと向かう。まるで違う時代が混在しているかのような光景だ。
「ねぇ、これ、なんて書いてあると思う?」
俺はCD-Rを眺めながら、代理エージェントに問いかけた。「1999 夏休み」。
「過去の記録を推測することは、現在の倫理検査規定により制限されています」
まるで壁に向かって話しているようだ。遥なら、きっと「あら、懐かしいわねぇ。私たちも昔、夏休みって言えば海に行ったわよね」なんて、記憶の断片を引っ張り出してくれただろうに。倫理検査期間はあと一週間。早く戻ってきてほしい。
CD-Rをポケットに入れ、磁気定期券も拾い上げた。定期券の裏側には、かろうじて読めるくらいの文字で『さようなら』と走り書きされていた。誰かの別れの言葉か、それともただのいたずらか。どちらにしても、この令和の御代にはそぐわない、アナログな感傷がそこにはあった。
俺は公園のベンチに腰を下ろした。ドローンが去った後の夜空には、きらめく星と、東の空がわずかに白み始めたグラデーションが見える。CD-Rと磁気定期券を掌で転がす。中身は見えない。だが、そこには確かに誰かの「時間」が封じ込められている。過去の誰かも、今の俺と同じように、この夜空の下で、何かを想い、何かを失い、そして、また新しい朝を迎えていたのだろうか。
ふと、遠くで子供たちが遊ぶ声が聞こえたような気がした。もちろん、錯覚だ。公園には誰もいない。だけど、その声は、消えた姉の記憶のように、心の中に確かに響いていた。もうすぐ、新しい一日が始まる。代理エージェントの、無機質な声じゃない、本物の姉の声が聞けるまで、俺はあと一週間、この平成エミュレーションの世界で、静かに生きていくだろう。このCD-Rと磁気定期券が、そう遠くない過去と今の俺とを、薄くつないでいるように感じられた。