暗室の赤と、二十一時五十分の空白

──平成0x29A年08月09日 21:50

 窓口の背後にある、電池の切れかかったアナログ時計が、重苦しく秒針を刻んでいる。
 カチ、カチ、と一秒ごとにプラスチックの軋む音が響く。平成初期のデザインを模したその時計は、この第十八市民サービスブロックの備品だ。時刻は二十一時五十分。夜間窓口の交代まで、あと十分だった。

「お兄ちゃん、またそれ見てるの。未練たらしいなあ」

 耳の奥で、妹の栞が笑った。栞は十九歳の時の姿で、僕の視界の端にARのノイズとして漂っている。七年前に亡くなった彼女の人格エージェントは、僕の二十四時間を監視し、あるいは補佐する。僕が手にしていたのは、一時間前に現像が上がってきたばかりのフィルム写真だ。

「未練じゃない。デジタル化されない粒子感を確認しているだけだ」
「はいはい。その『エモい』ってやつ、もう三百年くらい前の流行語だよ」

 栞が茶化す。その時、足元を平べったいロボ清掃員がウィーンと音を立てて通り過ぎた。旧時代の掃除機に似たフォルムだが、中身は党ドクトリンに基づいた自律走行アルゴリズムで動いている。清掃員は僕の靴の先を律儀に避け、窓口のカウンター下へと消えていった。

 呼び出し音が鳴り、一人の男が窓口に現れた。くたびれたスーツを着た、中年。彼は震える手で、旧式のガラケー型端末を差し出してきた。

「あの……時間貸しCPUの、超過料金の減免申請を……。家で平成初期アニメのアップスケーリングを回しすぎちまって、今月の演算リソースが空っぽなんです」

 切実な訴えだ。この時代、個人の演算能力は配給制だが、趣味でリソースを食いつぶす輩は絶えない。僕は事務的に端末を受け取り、内閣ユニットの承認待ちキューに流し込む。背後のサーバーラックが唸りを上げる。党のアルゴリズムが、男の納税記録と素行を照合し、差分を計算する。

「……あ、お兄ちゃん。私、時間だわ」

 栞の声が、急に遠くなった。

「法定倫理検査。二十一時五十五分から。一晩かかるから、あとは代理(スタブ)によろしくね。あんまり変な承認しちゃダメだよ」
「わかってる。行ってこい」

 栞の姿が霧のように消え、代わりに無機質な幾何学的図形が視界に浮かんだ。代理エージェントだ。近親者の温かみは一切なく、ただ法的にクリーンな判断基準だけを提供する虚無。それと同時に、僕の端末に真っ赤な通知が走った。

『第0x7FF内閣ユニット・内閣総理大臣に選出されました。任期:5分間(21:55 - 22:00)』

 またか。数十万ある並行内閣の一つを、五分だけ押し付けられる。本来なら栞が「この政策リクエストは罠だよ」とか「これは通してあげなよ」とアドバイスをくれるのだが、今の僕の傍には、冷徹な代理エージェントしかいない。

『閣議決定リクエスト:遺伝子ネットワーク経由の皇室敬愛感情の0.02%増幅』
『署名状況:党中央ドクトリン・アルゴリズムによる仮署名済み』

 代理エージェントが、合成音声で淡々と告げる。
「現行制度との乖離は無視できる範囲です。承認を推奨します」

 僕は窓口の男の顔を見た。彼は不安そうに僕を見つめている。彼のCPU超過料金の減免申請も、今僕が握っている総理権限の端っこに紛れ込んでいるはずだ。でも、どれがそれなのかは分からない。暗号化された無数のリクエストの断片が、目の前の画面を流れていく。

 アナログ時計の秒針が、二十一時五十五分を指した。栞はもういない。
 僕はただ、画面に表示された「承認」のアイコンを、事務的にタップした。指先に感じる触覚フィードバックが、どこか現実味を欠いている。五分間の独裁。世界がほんの少しだけ書き換わる音。それは、ロボ清掃員が床を叩く音よりも静かだ。

 五分が過ぎ、総理の任期が終わった。窓口の男の端末に「承認完了」の文字が出る。彼は深々と頭を下げ、去っていった。結局、僕が承認した大きな政策が何だったのか、僕には永遠に分からない。アルゴリズムが最適だと判断したのだから、そうなのだろう。

 僕は再び、現像されたフィルム写真を見た。写っているのは、今はもう存在しない、かつての「夏」の街並みのエミュレーションだ。粒子の粗い空は、今夜の窓の外の景色よりも、ずっと本物に見えた。

「お疲れ様でした」

 代理エージェントが冷たく告げ、消えた。静寂が戻る。時計の秒針だけが、相変わらずプラスチックの音を立てて、僕の時間を削り続けていた。