ピンクの札と、五分間の施し
──平成0x29A年06月16日 15:00
平成0x29A年6月16日、午後三時。不燃ゴミの山から立ち昇る、熱せられたプラスチックと古い油の匂いが鼻をつく。
私は第9資源循環ブロック、通称『御殿山スクラップ』のゲート前に立っていた。手垢で黄ばんだバイオメトリック改札に指を押し付ける。虹彩のスキャンが網膜を焼く。三度目の試行でようやく、システムが私を柿崎蓮だと認めて、錆びついたバーを回転させた。
「蓮、またこんなところで油売って。早く申請書を出しちゃいなさいよ」
網膜に投影されたウィンドウで、母さんのアバターが口を尖らせる。享年六十四。癌で死んだ時のやつれた顔ではなく、私が中学生だった頃の、一番お節介だった時期の姿だ。
「わかってるよ、母さん。これは『仕事』じゃなくて『徳』を積んでるんだ」
私が指差したのは、廃棄待ちの自転車の列だ。どれもこれも、党ドクトリンのアルゴリズムが『修復不能な非効率資産』と判定したものばかり。本来ならプレス機で潰される運命だが、この現場には非公式の『お下がりルール』がある。壊れたブレーキや歪んだフレームを、私のような下請けがこっそり直して、必要な誰かに回す。もちろん、記録上は『消失』だ。
一台の折り畳み自転車のハンドルに、色褪せたピンク色の紙札がぶら下がっていた。マジックで『平成22年度・御殿山駐輪場』と書かれている。数百年も前のエミュレーションを律儀に守っているせいで、このブロックの備品はすべて、こうした古臭いタグで管理されているのだ。
その時、視界が真っ赤なアラートで埋め尽くされた。
【緊急:第0xBEEF内閣ユニット・内閣総理大臣に選出されました。任期:300秒】
またかよ。私はスパナを放り出し、その場にしゃがみ込んだ。党のアルゴリズムがランダムに放り投げる、五分間の独裁権。エージェントの母さんが、テキパキと官邸直結の通信回線を確保する。
「蓮! ぼーっとしないで。閣議決定のリクエストが三万件来てるわ。生成AI校正を通して、一番マシなやつを選びなさい!」
目の前に、大量のテキスト断片が流れる。殆どが『遺伝子ネットワークを通じた皇室儀礼の予算増額』だの『プロトコル更新の延期』だの、どうでもいいノイズだ。その中に、一つだけ引っかかる差分リクエストがあった。
『廃棄物再定義:物理的欠損を伴う旧文明資産の、即時解体義務の免除』
これだ。これを承認すれば、このピンクの札がついた自転車を、コソコソ隠さずに済む。私は震える指で承認ボタンを押した。母さんが横から「語尾が不適切よ」と口を出し、生成AIが瞬時に「党の安定的発展に寄与する暫定措置として、これを追認する」と、もっともらしい官僚言葉に校正して暗号署名を添える。
任期終了まであと十秒。私は最後に、センターの町内会掲示板――液晶が液漏れして半分死んでいるデジタル看板――に、この決定を反映させた。掲示板には『本日の不法投棄厳禁』という警告の横に、私の署名入りで『自転車、ご自由にお持ちください』という文字が踊った。
三〇〇秒が過ぎ、私はただの作業員に戻った。背負っていた重圧が消え、静寂が戻る。
「やったわね、蓮。これでみんな喜ぶわよ」
母さんが誇らしげに胸を張る。だが、現実はそう甘くなかった。五分後、リサイクルセンターのスピーカーから、無機質な合成音声が流れた。
『閣議決定第702号に基づき、当施設内の廃棄自転車はすべて「国家重要循環資産」に格上げされました。個別の持ち出しは厳禁。二十四時間の監視ドローンを配備します』
掲示板の文字が書き換わる。そこには、仰々しいセキュリティコードと、違反者への罰則規定がびっしりと並んでいた。私が「自由に」と言ったせいで、アルゴリズムはそれを「国家による厳格な管理」と解釈したらしい。
私は、ハンドルに残されたピンクの紙札を眺めた。明日にはドローンがこれをスキャンし、厳密な資産番号を振り直すだろう。誰も乗ることのできない、完璧に管理されたゴミとして。
「もったいないわねぇ」
母さんのエージェントが、他人事のように呟いた。