朱肉のにじむ余白
──平成0x29A年12月21日 08:40
俺が公園のホログラム掲示板の前に立ったのは、朝の八時四十分だった。旧江東エリアの「第三公園」。滑り台も砂場もあるが、誰も使わない。
掲示板には「年末年始のゴミ回収スケジュール変更のお知らせ」が浮かんでいる。その下に、手書きの張り紙。『ハンコ持参で生体認証の代替可能です――区民課』
俺の仕事は、こういう張り紙を剥がすことだ。公園管理補助員。要するに雑用係。
「新也、これ、どうする?」
耳の奥で母さんのエージェントが囁く。小野寺澄子、享年49、俺が高校のときに病気で死んだ。今は俺の頭の中で、ときどき心配そうに話しかけてくる。
「放っとけばいいだろ」
俺は張り紙を剥がしかけて、手を止めた。
ハンコ。生体認証の代替。
つまり、署名アルゴリズムが壊れかけてるってことだ。生体認証が通らないから、昔ながらのハンコで代用する。そんなアナログな手続きが、また復活してる。
母さんのエージェントは黙った。彼女は昔、区役所で働いていた。ハンコを押す側だった。
俺はポケットから使い捨てカメラを取り出した。フィルム写真。現像に三日かかる。誰も使わない。でも、俺は使う。デジタルは信用できない。いつ消えるかわからない。
シャッターを切る。張り紙を、ホログラム掲示板を、その奥のベンチを。
ベンチには、誰かが座っていた。老人だ。手に朱肉の容器を持っている。開いたまま、蓋がない。
「すみません、そこ、朱肉ですか?」
老人は顔を上げた。目が虚ろだ。
「ああ……これか。今朝、区役所で借りたんだが……生体認証が通らなくてな」
「ああ、やっぱり」
俺は頷いた。老人の指には、朱肉の赤が滲んでいる。
「それで、ハンコ押したんですか?」
「押したよ。でも、受理されなかった。署名アルゴリズムがエラーを吐いたらしい。ハンコの印影を読み込めないんだとさ」
老人は笑った。乾いた笑い。
「もう、何が何だか分からん」
俺もわからない。
でも、俺にはわかることがある。この張り紙を剥がさないこと。それが、今日できる小さな抵抗だ。
「新也、大丈夫?」
母さんのエージェントが心配そうに聞く。
「大丈夫」
俺は張り紙をそのままにして、老人に声をかけた。
「朱肉、蓋しときますね」
老人は頷いた。俺は朱肉の蓋を閉めて、老人の手に戻した。
「ありがとう」
「いえ」
フィルムカメラをポケットにしまう。現像されるのは三日後。そのとき、この朝がまだ残っているかどうか。
わからない。でも、残したい。
俺は公園を後にした。ホログラム掲示板の光が、朝日に溶けていく。