空っぽの通帳、満タンの電池

──平成0x29A年11月22日 16:20

部屋の隅に積まれた段ボール箱から、カサカサと乾いた音がする。中身は単三乾電池の山。依頼人が溜め込んだ遺品だ。私はその一つ一つをスキャナにかけ、識別コードを生成していく。単純作業の繰り返し。

『警告:タスク遅延。依頼主よりプロトコル承認の最終通告。即時対応を推奨します』

視界の端に、代理エージェントからのテキストが冷たく点滅する。夫の拓也が法定倫理検査に入ってから三日。この無機質な声(テキストだけど)には、まだ慣れない。
「わかってる。でも、なんて言ってるの?依頼主は」
『要請内容:故人の金融資産凍結に関する量子署名。期限超過により、あなたの評価にペナルティが付与される可能性があります』

凍結、ペナルティ。代理の言葉はいつも鋭利なガラス片のようだ。拓也なら、「口座を閉じる手続き、お願いできるかな?ってさ。急がなくていいけど、忘れないでね」なんて、柔らかく翻訳してくれるのに。

ため息をつきながら、別の箱を開ける。中から出てきたのは、古びた紙の通帳だった。平成の遺物。表紙には「さくら銀行」と印字されている。仕事柄、こういうものには慣れているけれど、ページをめくる手はいつも少しだけ緊張する。

最終ページの残高は、ゼロ。取引記録の最後の行には、細い字でメモが書き込まれていた。
『新しい電池を買っておくこと。君が暗い思いをしないように』

一瞬、心臓が跳ねた。拓也の字かと思った。でも、違う。これは依頼人の、知らない誰かの筆跡だ。それでも、インクのかすれた温かさが、胸の奥にじんと染みた。

『警告:量子署名の未処理を確認。再通告します』

代理の声が、感傷を断ち切る。私は通帳をそっと机に置くと、重い腰を上げて窓を開けた。

ひやりとした夕方の空気が流れ込んでくる。眼下の遊歩道では、公共ARサインが淡い光を放っていた。
《第0x8C45A内閣ユニットより:街路樹の葉の色調補正(秋季・黄金比)に関する差分投票を開始します》

どうでもいい。本当に、どうでもいいことばかりだ。世界はこんなにも滑らかで、完璧で、そして冷たい。

私はもう一度、通帳に目を落とした。ゼロ円の預金と、インクのメモ。乾電池の山。
凍結じゃない。閉鎖だ。誰かの人生を、次の誰かへ繋ぐための、ただの手続き。

承認画面を開く。そこには、ただ一つのボタンがあった。量子署名、という物々しい名前とは裏腹に、あっけないほどシンプルだ。

指を伸ばす。これを押せば、今日の仕事は終わる。そしたら、温かいお茶でも淹れよう。

拓也が帰ってきたら、この代理のひどい翻訳っぷりを話して、二人で笑うんだ。そして、いつか私も、誰かのための通帳に、温かい言葉を残せるだろうか。

空っぽの口座と、満タンの電池。今は、それでいいのかもしれない。
私は、そっと画面に触れた。