イヤホンの向こう、届かない言葉

──平成0x29A年 日時不明

公園の砂場から、息子のたてるプラスチックの甲高い音が聞こえる。
私はベンチに座って、その様子をぼんやりと眺めていた。耳にはめたイヤホンの片方からは、古いテープを再生するような、かすかなノイズに混じって音楽が流れている。銀色の四角い筐体の、再生ボタン。ウォークマンと呼ぶには少し分厚いそれは、私の記憶補助デバイスも兼ねていた。

『遥、顔色が良くない。少し休んだらどうだ』

イヤホンから聞こえてきたのは、音楽ではなく拓也の声だった。数年前に死んだ、私の夫。今は私のエージェントとして、こうして声だけを届けてくれる。
「大丈夫。ちょっと、考えごと」
私は誰に言うでもなく呟いた。周りから見れば、独り言を言う危ない母親だろう。

「桜井さん」
声をかけられて、はっと顔を上げた。同じ幼稚園に子供を通わせる佐藤さんだった。
「こんにちは。明日の遠足の件、連絡網で回ってきました? うち、なぜか受信できなくて」
「え……」
私は耳元のデバイスに意識を集中する。拓也に問いかけるより早く、彼が答えた。
『該当する通知ログはない。また同期が遅延しているようだ』
「……すみません、うちもまだみたいです」
嘘をついた。佐藤さんは「あら、そうですか。じゃあ、うちだけじゃないのね」と少し安心したように笑って、遠足の持ち物について口頭で教えてくれた。水筒とお弁当、それからビニールシート。私はそれを必死で記憶に刻み込む。

『すまない。僕のシステムの問題だ』
「あなたのせいじゃないわ」
私はまた、小さく呟いた。
最近、こういうことが頻繁に起きる。世界のどこかで誰かが5分間の総理大臣になって、気まぐれに承認した差分パッチが、末端の私たちに届く頃にはバグだらけになっている。そんな噂を、誰かがしていた。

息子が「ジュース!」と叫びながら走ってくる。私は息子の手を引いて、公園の隅にある無人の売店へ向かった。
省人化レジにデバイスをかざす。ピ、ピ、と乾いた音が二度鳴って、『認証エラー』の赤い文字が浮かんだ。
「……またか」
何度試しても同じだった。結局、ポケットを探って見つけた古めかしい硬貨で、なんとかジュースを買うことができた。

ベンチに戻ると、公園のスピーカーから抑揚のない合成音声アナウンスが流れ始めた。
『第0x33A1C内閣ユニットより通達。公園内におけるドローン飛行規定の一部改定が、先ほど承認されました。詳細は、各自のパーソナル・エージェントよりご確認ください』
もちろん、私のところには何も届かない。世界の仕組みから、私だけが少しずつ取り残されていくような感覚。砂場で遊ぶ息子の姿が、滲んで見えた。

「ねえ、拓也」
私はイヤホンに語りかけた。
「あなたも時々、私のこと、忘れそうになったりする?」

しばらくの沈黙。ノイズだけが耳を撫でる。
やがて、彼の静かな声が返ってきた。

『僕の記憶データは、君と最後に会った日のままだ。あの日から、ほとんど更新されていない。だから、君のことは絶対に忘れない』

その言葉に、少しだけ救われた気がした。でも、彼の言葉は続いた。

『でもね、遥。僕が覚えている君と、今の君は、少しだけ違う人みたいだ』
「……え?」
『僕の知らない間に、君は強くなった。僕がいなくても、ちゃんと母親をやっている。……正直に言うとね、それが少し、寂しいんだ』

それは、私が今まで聞いたことのない、拓也の告白だった。更新されない記憶を持つ彼だからこその、痛切な本音。
私は何も答えられず、ただ、イヤホンの向こうで沈黙する彼の気配を感じていた。空は高く、どこまでも続いているのに、私の世界はこんなにも息苦しい。