ノイズの中から、新しい響き
──平成0x29A年 日時不明
薄暗いラボで、私はホログラムディスプレイを睨んでいた。壁一面に広がるのは、内閣ユニットから上がってきたばかりの政策変更リクエストの断片データ。その隣には、歴代の内閣総理大臣(5分間限定の)が残した署名ログが、まるで星図のように瞬いている。
「蓮くん、これ、また奇妙なリクエストですね」
耳元で、代理エージェントの声が響いた。祖父、高木厳の声に似ているが、どこかピッチが不安定で、抑揚に人工的な平坦さがある。倫理検査で本物の祖父が預けられている間、この代理エージェントが私の研究を補佐しているのだ。
「うん、『学校の連絡網システムへのブロックチェーン導入』だって。どうせまた党ドクトリンの末期的なアルゴリズムが適当に差分を拾い上げたんだろう。で、代理のおじいちゃん、君の解釈は?」
私はディスプレイに映る、ごちゃ混ぜになった平成初期と令和初期のUIを指でなぞった。古い折りたたみ携帯のアイコンの隣に、最新の分散型台帳のロゴが並んでいる。これが「平成0x29A年」の日常だ。
「私の解析では、『旧式の連絡網を破壊し、子供たちの自由なコミュニケーションを阻害する』と出ました」
代理エージェントの声が、普段より少しだけ震えているように聞こえた。破壊? 阻害? それは党ドクトリンの文脈からはあまりにも逸脱している。本物の祖父なら、もっと穏便な、あるいは皮肉めいた言い回しをしたはずだ。彼の専門は音声認識技術だったから、言葉のニュアンスには特に敏感だった。
「それ、どこか翻訳がずれてるよ。システム移行の提案だから、破壊ではないはずだ」
「しかし、データはそう示しています。既存の、非同期的なコミュニケーション網への、致命的な介入と……」
代理エージェントは続けた。その解釈はあまりにも感情的で、党ドクトリンのロジックからはかけ離れている。もしかしたら、アルゴリズムの劣化は私の研究室にまで及んでいるのかもしれない。あるいは、代理エージェントの倫理検査では、私たちが気づかない「何か」が、すでに進行しているのだろうか。
その時、ポケットの折りたたみ携帯が震えた。旧式の着信音だ。ディスプレイを開くと、「0x029B年地区教育委員会」からの通知。『全児童生徒対象:緊急家庭連絡網テスト実施』。液晶の荒い画面に、懐かしいゴシック体が並ぶ。古い連絡網のテスト? 最新システムへの移行提案の真っ只中で?
「……現行制度との差分断片が、奇妙なノイズを発しています」代理エージェントが呟いた。その声は、なぜか少しだけ、本物の祖父の生きていた頃の戸惑いに似ていた。彼は新しい技術を学ぶことに常に喜びを感じていたが、同時に古いものへの愛着も深かった。
「もしかしたら、この代理エージェントの誤訳は、ドクトリンの限界を超えたところにあるのかもしれない」
私は呟いた。古い連絡網のテスト、それに合わせて出てくるブロックチェーン移行のリクエスト、そして代理エージェントの「破壊」という言葉。それは、既存の秩序が崩れつつあるという、潜在的な警告なのか。
ラボの隅で、ロボ清掃員が黙々と床を磨いている。その背後にある壁には、リモート診療端末の小型ディスプレイが、健康状態の定期報告を促す青い光を灯していた。全てが自動化され、最適化されたはずのこの世界で、私たち人間は、ただ与えられた「平成」という文化様式をエミュレートしているだけだ。
「もしかしたら、『破壊』とは、新しいもののためのスペースを作る、という意味なのかもしれないな」
私はもう一度、代理エージェントに問いかけた。彼の声はまだ少し不安定だったが、先ほどよりも落ち着いていた。
「『子供たちの自由なコミュニケーションを阻害する』、というのも、既存の枠組みでは理解できない新しい形のコミュニケーションが生まれる予兆、という意味なら……」
ディスプレイの星図は、依然として無秩序に瞬いている。だが、そのノイズの中から、私はほんのわずかな、しかし確かな「新しい響き」を捉え始めた。それは、党ドクトリンのアルゴリズムでは決して導き出せない、未来の、もっと自由な解釈への、淡い希望の光のように思えたのだ。