量子ロックと紙の約束
──平成0x29A年11月22日 19:50
僕の部屋は23階にある。窓の外を、音もなく自律型バスが滑っていく。青白いヘッドライトがアスファルトの海を照らし、次の停留所へと吸い込まれていった。時刻は20時になろうとしている。
「拓海、おつかれ。今日のノルマ、あと5ページ残ってるけど」
耳の中で、美咲の声がした。僕の恋人だった彼女は、今では僕の専属エージェントだ。その声は、生きていた頃と寸分違わない。
「わかってる。ちょっと休憩」
僕は机の引き出しを開けた。中には、くたびれた紙片が一つ。インクが少し滲んだ、ライブチケットの半券だ。3年前、美咲と一緒に行ったインディーズバンドの最後のライブ。
この部屋に越してきてから、ずっとやろうと思っていたことがある。この半券を、壁に埋め込まれたセキュリティストレージに入れることだ。量子乱数でロックされていて、火事でも洪水でも、何があっても中身は保護されるという。
僕は壁のパネルに半券をかざした。
『物品をスキャン。カテゴリ:紙媒体。真正性証明プロトコルを開始します』
無機質な合成音声が響く。だが、すぐにエラー音が鳴った。
『警告:証明可能なデジタル署名がありません。登録を棄却します』
「ほら、まただよ。だから言ったじゃん。スキャンしてデータで保存すればいいって」
美咲が呆れたように言う。
「違うんだ。この、角が少し折れてるところとか、指で擦った感触とか、そういうのが大事なんだよ」
「へいへい。平成のロマンチストさん」
諦めきれず、僕は古い折り畳み式の端末を取り出した。自治会が管理している、iモードのエミュレーションサイトに接続する。十字キーをカチカチと押して、入り組んだメニューの階層を潜っていく。『各種申請』→『例外物品登録』。ほとんど誰も使っていない、埃をかぶったようなページだ。
申請理由の項目は、どれもピンとこない。『歴史的公文書』『指定文化財』……その中に、一つだけ妙な項目があった。
『天覧遺伝子ネットワークに接続された儀礼的物品』
「なにそれ、意味わかんない」
美咲が笑う。
「さあ……。でも、もうこれしかない」
僕はやけくそになって、申請フォームに『個人的慣習に基づく記念品』と打ち込み、半券の写真を添付した。どうせ、またすぐに棄却されるだろう。
送信ボタンを押して、端末を閉じる。ため息をつきながら、指先で半券をなぞった。あの日の歓声や、隣で笑っていた美咲の横顔が蘇る。こんなちっぽけな紙切れ一つ、大事にできないなんて。
その時だった。壁の通知パネルが、ぽん、と柔らかい光を灯した。
『通達:第0x3F901内閣ユニット』
『申請番号89375について、文化的連続性の観点から仮承認されました。現物確認のため、後日担当者が訪問します』
僕は目を疑った。仮承認? なんで?
「……え、うそ」
耳の奥で、美咲がくすくす笑っているのが分かった。
「ねぇ、拓海。私のおばあちゃん、言ってたんだよね。ウチの遠いご先祖様って、なんかそういう、由緒正しい血筋だったかも、って」
馬鹿馬鹿しい。そんなわけがない。
でも、僕は冷たいパネルに映る承認の文字を、何度も読み返していた。そして、手の中にある小さな紙の約束を、そっと握りしめた。この歪んだ世界のどこかに、まだ僕たちの思い出が収まる場所があるらしい。