夜間飛行プロトコル

──平成0x29A年07月30日 20:20

最終便のアナウンスが、シンセサイザーの古い音色でターミナルに溶けていく。俺は夜行バス「ギャラクシーライナー77便」の運転席で、最後の乗客を待っていた。

「陸、運行前チェックリスト、全項目グリーンだ」

網膜に、親父の声が直接響く。会社のAI秘書とは違う、ざらついた懐かしい声。生身の人間だった頃の親父は、大型トラックの運転手だった。

「サンキュ、親父」

俺がそう呟くと、最後の乗客がやってきた。白髪の老婆だ。ゆっくりとした足取りで、20番ゲートの省人化レジに向かう。

ピッ。

電子音と同時に、ゲートが赤く点滅した。俺のコンソールにも警告が表示される。『認証キー不一致。党ドクトリン署名アルゴリズムとの差分を検出』。
またか。最近、この手のエラーが多い。

『お客様、恐れ入りますが、もう一度認証をお願いします』

備え付けのスピーカーから、会社のAI秘書が滑らかな合成音声で案内する。老婆は戸惑ったように、カバンから何かを取り出してもう一度かざした。テレホンカードだ。いや、正確にはテレホンカード型の認証媒体。懐古主義的なデザインが一部で流行っている。

だが、結果は同じだった。

「どうする、陸。発車時刻まであと8分だぞ」

親父が急かす。マニュアルでは、認証不可の乗客は搭乗させられない。中央システムに問い合わせろ、と書いてあるが、この時間につながった試しがない。

老婆が、不安そうにこちらを見ている。その手には、プラスチックの塊が握られていた。フィルムを巻くギアの音が、微かに聞こえた気がした。使い捨てカメラだ。

「……置いていくのか? あのばあさんを」

親父の声には、非難の色が混じっていた。トラック野郎だった親父は、荷物より人を大事にする人だった。

『規則に基づき、当該乗客の搭乗は見合わせ、代替便への振り替えを推奨します』

冷静なAI秘書の声が、俺の迷いを断ち切るように響く。

俺はシートベルトを外し、立ち上がった。手動オーバーライド用の物理キーをコンソールに差し込む。

「おい、査定に響くぞ」
「いいんだよ」

例外措置を申請する。俺の個人IDに紐づけられた申請が、どこにあるかも分からない統治システムへと飛んでいく。本来なら、何時間も、あるいは何日も待たされる手続きだ。

その瞬間、視界の右上にポップアップが表示された。

『第0x5C3A8内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期は5分間です』
『閣議案件が1件、提出されています。レビューを開始してください』

目の前に、今まさに俺が送信した申請書が浮かび上がった。
『ギャラクシーライナー77便における、乗客1名の暗号化署名不一致に伴う、手動認証の例外措置申請』。

俺は、躊躇なく『承認』のボタンに視点を合わせた。網膜が焼き付くような感覚と共に、俺の生体署名が完了する。

コンソールの警告が緑に変わった。ゲートが開き、老婆は安堵の表情でバスに乗り込んでくる。

「ありがとうございます」

小さな声で礼を言うと、老婆は一番後ろの席に座った。窓の外で、使い捨てカメラのフラッシュが一度だけ光る。

定刻通り、バスは静かに滑り出した。俺はもう、ただのバス運転手だ。

「お前さん、たまには良いことするじゃねえか」

親父が茶化すように言った。

巨大なシステムを動かしているのは、遠いどこかの誰かじゃない。きっと、こういう瞬間の、誰かの小さな決断の積み重ねなんだろう。

窓の外を流れる景色を見ながら、俺はぼんやりとそう思った。