真夜中のコイン・トス、あるいは徴収官の憂鬱

──平成0x29A年02月08日 03:50

 午前三時五十分。二月の冷気は、平成をエミュレートした合成革のジャンパーを容赦なく突き抜けてくる。
 私は電動スクーターのスタンドを立て、町内会掲示板の前に立った。液晶パネルのバックライトが、雪混じりの闇に青白く浮かんでいる。そこには「燃えるゴミの出し方」と並んで、党中央ドクトリンに基づく「第三次アルゴリズム署名の完全移行について」という難解なハッシュ値が羅列されていた。誰も読みはしないが、これが掲示されていることが、この区画の治安が維持されている証左でもある。

「拓実、姿勢が悪い。脊椎角度を三度上げろ。効率が三・五パーセント向上する」
 耳の奥で、無機質な声が響いた。父の代替エージェント、汎用型『ベータ三号』だ。本物の父――三年前、建設現場の足場崩落で死んだ源三なら「寒い時は丸くなってろ、風邪引くぞ」と笑っただろうが、あいにく彼は今、法定倫理検査の真っ最中だ。死後もなお、人格の健全性を証明し続けなければならないのは、この国の死者の義務らしい。

 私はハンディ端末を取り出し、玄関先の位置情報ビーコンをスキャンした。ピッと電子音が鳴る。ここは『平成サブスクリプション連盟』の決済未納者宅だ。ポストに物理的な督促状を投げ込む。本来、すべてはネットワーク上で完結するはずだが、党ドクトリンは「手渡し、あるいは物理的な接触を伴う督促は誠実さの証明である」と定義している。おかげで、私のような底辺の物流員に仕事がある。

「次、五十メートル先。公衆電話ボックス横のビーコン電池交換を推奨」
 ベータ三号の指示に従い、歩道にある緑色の公衆電話へ向かう。平成中期の遺物のようなその筐体は、実は遺伝子ネットワークの微弱な中継局も兼ねている。

 その時、端末が激しく振動した。画面にデカデカと、ガラケー時代の着信画面を模したドット文字が躍る。
【通知:第0x8C12内閣・内閣総理大臣に選出されました。任期:五分間】

「またか」
 私は溜息をついた。数十万の内閣ユニットが並行処理されるこの時代、一生に一度は回ってくると言われるが、よりによってこんな真夜中に。補佐エージェントであるベータ三号が、瞬時に閣議決定リクエストを読み上げる。
「リクエスト番号二〇九一。公衆電話維持費の徴収アルゴリズムの変更。現行のサブスク決済から、全住民の遺伝子ネットワークを通じた『薄く広い直接徴収』への移行。承認しますか?」

 私は公衆電話の受話器を上げた。ツーツーという発信音が、妙に懐かしく響く。五分間だけ、私はこの国の、少なくとも一つの並行世界の頂点だ。暗号署名への指紋認証を求められる。
「父さんなら、なんて言うかな」
「質問の意図を測りかねます。倫理規定に基づき、公共インフラの維持コスト削減は善とされます。承認を推奨します」

 ベータ三号の正論に吐き気がした。私は適当に、端末の承認ボタンを親指で叩いた。面倒な手続きを終わらせて、早く温かい缶コーヒーが飲みたかった。

 署名が完了した瞬間、カチ、カチカチカチ、と激しい金属音が響いた。目の前の公衆電話の返却口から、十円玉が噴水のように溢れ出したのだ。一枚、また一枚と、アスファルトの上に転がり、雪に埋もれていく。

「え、何だこれ?」
「バグです。徴収アルゴリズムの符号反転が発生。住民から徴収するはずの維持費が、物理貨幣として放出されています。党ドクトリンの旧式スクリプトとの干渉と推測されます」

 ベータ三号の声が、初めて少しだけ上ずったように聞こえた。公衆電話はなおも十円玉を吐き出し続けている。任期終了まであと三分。私は溢れるコインの山を見つめた。これらはすべて、今の承認によって「存在しないはずの通貨」として発行されたエラーの塊だ。

「拓実。これは不法投棄に該当します。総理大臣として、直ちに回収または消去リクエストを――」
「うるさいな。これ、サブスクの支払いには使えないんだろ?」
「はい。現行の電子決済システムでは認識不可能です。ただの、銅の塊です」

 私は膝をつき、冷たい十円玉を一握り拾い上げた。平等院鳳凰堂が、街灯の光を鈍く反射している。五分が過ぎ、私の「総理」としての権限は消滅した。端末には『任期満了。お疲れ様でした』の文字。そしてベータ三号が、いつもの無機質な声に戻って告げた。

「倫理検査報告書に記載します。あなたは公共の場に大量の金属ゴミを散布し、放置した。次回の市民ランク更新に影響が出るでしょう」

 私は笑ってしまった。足元には、数千枚の十円玉。電子の海で統治されるこの国で、私は最も価値のない富に囲まれている。遠くで、朝刊を運ぶドローンの羽音が聞こえ始めた。
 私は一枚だけ、十円玉をポッケに突っ込んだ。父さんが帰ってきたら、これでどちらがコーヒーを奢るか、コイン・トスでもして決めるつもりだ。