04:30の不整合、あるいは擦り切れた磁気テープのノイズについて

──平成0x29A年01月08日 04:30

 午前四時三十分。第十九医療ブロック、特別養護老人ホーム「あじさいの園」の廊下は、不自然なほど静まり返っている。二十四時間稼働しているはずの空気清浄機の唸りさえ、今は遠い波音のように聞こえた。

「お兄ちゃん、また署名エラー。これで三回目だよ」

 網膜に投影された志乃のアイコンが、困ったように眉をひそめた。志乃は十二年前、二十二歳の若さで心臓を止めた私の妹だ。今は私の近親人格エージェントとして、視界の隅で事務処理をサポートしてくれている。

「原因は?」
「ブロックチェーン側の暗号化手続きと、こっちのドクトリン署名が一致してない。たぶん、さっきの党アルゴリズムの更新で、古い医療プロトコルの一部が『非推奨』に分類されちゃったんだと思う」

 私は手元のタブレットを叩いた。入居者の一人、九十歳の佐藤さんの容態が安定しない。血中ナノマシンの稼働率を上げる必要があるのだが、そのための「サブスク決済」の承認が、党ドクトリンの署名不一致で弾かれ続けている。ナノマシンの維持費は月額固定だが、緊急ブーストは都度、内閣ユニットの承認が必要なのだ。

「……仕方ない、手動でパッチを当てる。志乃、古い様式を探して」
「了解。あ、ついでにこれ、詰所の机に置いたままだよ」

 志乃がポインタで示したのは、昨日ポストに届いていた紙の「ガス検針票」だった。平成エミュレートの一環として、この居住区ではいまだにガスの使用量が紙で通知される。私はそれをポケットにねじ込み、深夜の談話室へと向かった。

 談話室の隅にある省人化レジで、私は微糖の缶コーヒーを一本買った。顔認証と掌下組織のチップで決済は一瞬で終わるが、ガコンと大きな音を立てて落ちてくる缶は、いつだって平成の中期を思わせる重みがある。

 壁際では、古いブラウン管のモニターが青白い光を放っていた。佐藤さんのリクエストで流している「回想療法」用の映像だ。デッキの中では、今では貴重な物理メディアである「VHSテープ」が、シュルシュルと乾いた音を立てて回っている。映し出されているのは、どこかの地方都市の、何でもない夏祭りの風景だった。画質は最悪で、横線状のノイズが絶えず画面を走っている。

「お兄ちゃん、見て。佐藤さんのバイタル、少し落ち着いた」

 志乃の声に視線を戻すと、佐藤さんはノイズだらけの画面を見つめたまま、安らかに眠っていた。暗号化エラーは解決していないが、ナノマシンの基底プログラムが『現状維持』を選択したらしい。党ドクトリンのアルゴリズムは時々、こういう不可解な慈悲を見せる。あるいは、単に処理を放棄しただけかもしれない。

「……なあ、志乃。佐藤さんの家系図、見たことあるか?」
「うん。皇室遺伝子ネットワークのノードが0.004%入ってる。でも、このブロックじゃ珍しくないよ」

 そう、珍しくはない。私たちは皆、薄く引き伸ばされた神話の残滓を血の中に持っている。だが、それが何かを救うわけではない。私たちはただ、平成という名の停滞した楽園で、解読不能になりつつある古いプログラムに守られながら生きているだけだ。

 窓の外を見ると、東の空がわずかに白んでいた。あと五分もすれば、誰かがランダムに第五万三千百二内閣ユニットの総理大臣に選ばれ、五分間だけの署名権限を行使するだろう。その誰かが、佐藤さんのサブスク決済を承認してくれる保証はないし、そもそもそんな小さなリクエストが彼らの端末に届くかどうかも怪しい。

「エラー、消さなくていいの?」
 志乃が訊いてくる。私は冷めた缶コーヒーを一口飲み、頭を振った。

「いいよ。どうせ明日になれば、また別の不整合が起きる。今は、このノイズを見ていよう」

 画面の中では、法被を着た人々が、ざらついた電子の砂嵐の中で踊り続けている。昭和の終わりから平成にかけて作られたその磁気テープは、幾度も上書きされ、消えかかりながらも、令和を通り越し、この遠い未来まで届いている。

 不一致も、ノイズも、エラーも。この世界を構成する、愛おしい一部だ。
 私は、ポケットの中のガス検針票をそっと撫で、佐藤さんの寝息に合わせて深く呼吸をした。