充電切れの群れ、回覧板は朝を待つ

──平成0x29A年07月10日 04:50

ゲートをくぐると、左手首の静脈パターンが読まれて改札が開いた。バイオメトリック改札は、いつもより少し反応が遅い。俺は荷物用カートを押して第12物流ブロックの夜間集積所へ入った。

午前五時前。まだ外は薄暗い。頭上では群ロボットたちが低い唸りを上げながら、棚から棚へ荷を運んでいる。俺の仕事は、そいつらが拾い損ねた紙の回覧板を手作業で各区画の配送トレイに振り分けることだ。

「おはよう、大地」

耳の奥で兄貴の声がした。川村拓海、享年32。配送ドローンの墜落事故で死んだ。俺のエージェントだ。

「ああ」

俺は短く返した。兄貴は生前から口数が少なかった。死んでからも、それは変わらない。

トレイに積まれた回覧板の束を手に取る。紙の手触りが妙に湿っている。湿度管理がまた狂ってるのか。上のほうから、群ロボットの一台が変な音を立てているのが聞こえた。充電式NiMH電池を使ってるやつだ。古い設計で、容量が落ちると動きが鈍くなる。

「大地、ちょっと待て」

兄貴の声が緊張を含んだ。

「なんだよ」

「その回覧板、宛先を見ろ」

俺は手元の紙をめくった。第12ブロック第8居住区。その下に、手書きで小さく追記がある。

『遺伝子ネットワーク保守センター 緊急連絡 0x29A/07/10 04:30発』

こんな時間に保守センターから? 俺は中身を確認しようとしたが、封がしてある。開けるわけにはいかない。

「兄貴、これ、どうすればいい」

「俺に訊くな。お前の仕事だろ」

冷たい返答だ。でも、兄貴の声には微かな揺らぎがあった。

頭上で、群ロボットがまた変な音を立てた。今度ははっきりと異常だ。一台が棚の角に引っかかって、同じ動作を繰り返している。充電が切れかけているのか、それとも制御系が狂っているのか。

俺は回覧板を配送トレイに入れようとして、ふと手を止めた。

宛先の住所が、微妙におかしい。第8居住区の番地が、俺の記憶にない並びになっている。いや、待てよ。これ、もしかして——

「兄貴、この住所、存在するのか?」

「……さあな」

兄貴の声が、また揺らいだ。

その時、俺の端末が震えた。内閣ユニットからの通知だ。五分間だけ、第0x4A7C2内閣ユニットの内閣総理大臣を務めろという。

タイミングが悪すぎる。俺は端末を確認した。差分リクエストが一件。『遺伝子ネットワーク 微細補正プロトコル 一時停止申請』。

申請元は、第12ブロック遺伝子ネットワーク保守センター。

さっきの回覧板と同じだ。

俺は画面を見つめた。補正を止めるということは、ネットワークに何か異常が起きているということだ。でも、それが何を意味するのか、俺にはわからない。

「大地、承認するな」

兄貴の声が、初めて強い調子になった。

「なんでだよ」

「……いいから」

頭上で、群ロボットがついに停止した。充電が完全に切れたらしい。静寂が広がる。

俺は端末の承認ボタンを見つめた。五分のカウントダウンが進んでいく。

そして、俺は非承認を選んだ。

画面が暗転する。任期終了。

俺は回覧板を手に取った。封を開けるわけにはいかない。でも、透かして見ると、中に小さな文字が見える。

『遺伝子ネットワーク 第8区画 接続異常 原因不明 拡散の可能性』

俺は回覧板を配送トレイに入れた。手が少し震えた。

「兄貴、これでよかったのか」

「……わからない」

兄貴の声は、もう何も言わなかった。

外が明るくなり始めた。群ロボットは動かないまま、棚の上で朝を待っている。