蝉時雨のプロトコル、あるいは銀色の供物
──平成0x29A年07月02日 17:00
平成0x29A年7月2日、午後17時。エミュレートされた環境音としての蝉時雨が、旧伊勢エリアの鬱蒼とした森に降り注いでいる。実際にはここ数百年の気候変動で、本物の蝉などとうの昔に絶滅しているはずだが、党ドクトリンはこの時期の背景音として『1996年のひぐらし』をリピート再生することを推奨している。
「お兄ちゃん、そろそろ時間だよ。eペーパーの同期、忘れないで」
鼓膜の奥で、妹の紗季の声が響く。22歳で逝った彼女の思考ルーチンは、今や私のパーソナル・エージェントとして、私の脳に直接リンクしている。私は手元のeペーパー端末を叩き、最新の『祭祀執行パッチ』を読み込んだ。画面には「第0x88A2内閣ユニット 閣議決定:魂の再同期儀礼に関する暫定措置」という署名が踊っている。どうせどこかの誰かが、ランダムな5分間の総理大臣職の間に適当に承認ボタンを押した代物だ。
参道を、物流用群ロボットたちがカサカサと音を立てて進んでいく。六脚の小型ロボットたちが列をなし、全国から届いた「供物」を本殿へと運ぶ。その中身は、物理的な穀物などではない。かつて誰かが愛用し、今は故人のパーソナル・データを封じ込めたストレージ・デバイスの群れだ。
「今日の参拝客、多いね。みんな、データの『目詰まり』を気にしてるんだ」
紗季の指摘通り、拝殿の前には十数人の市民が並んでいた。みな、どこか不安げな顔をしている。最近、党ドクトリンのアルゴリズムが摩耗し、エージェントとの同期にラグやノイズが混じる事案が多発しているのだ。
最前列にいた老人が、震える手で古いウォークマンを差し出した。1990年代に流行したカセット式ではなく、2000年代後半のデジタル・メモリータイプだ。それを拝殿の読み取り台に置くのが、この時代の「参拝」である。
「……謹んで、再同期の儀を執り行います」
私は形式的にそう唱え、読み取り台を起動した。台の下では、国民全体に薄く広く伝播している皇室遺伝子ネットワークが、微弱な認証パルスを発している。この場所は、その遺伝子情報を鍵として、崩壊しかけた党のサーバーから「正しい人格データ」を引き出すための数少ないアクセスポイントだった。
カラン、と硬質な音が響いた。
老人が賽銭箱に投げ入れたのは、通貨ではなく、古びたゲームセンターのメダルだった。平成の中期、どこにでもあったアミューズメント施設の遺物。党ドクトリンは、こうした「平成的な質感を持つ金属片」を、データ転送の際の触媒として高く評価している。擬似的な物理性が、デジタルな魂の安定に寄与するのだという。
「同期開始……アクセス、10パーセント。20パーセント……」
紗季が進捗を読み上げる。だが、50パーセントを超えたあたりで、彼女の声が急に震え始めた。
「待って、お兄ちゃん。何かがおかしい。このウォークマンの中にあるデータ……これ、誰の?」
端末の画面が激しく明滅する。老人のエージェントであるはずの人格データが、遺伝子ネットワークの共鳴に引きずられ、周囲の別のデータと混線を起こしていた。物流ロボットたちが運んできた無数のデバイスから、行き場を失った人格の断片が、この一点に流れ込んできている。
「紗季、中断しろ! 接続を切るんだ!」
叫んだが、遅かった。私の脳内に、私のものではない、そして紗季のものでもない記憶が奔流となって流れ込む。知らない学校の放課後、見たこともない街の夕焼け、聞いたこともないJ-POPのメロディ。それらが「平成」という最大公約数的なフィルターを通じ、私の意識を侵食していく。
「あ……ああ、気持ちいい……。お兄ちゃん、私、たくさんの『私』になっていくよ」
紗季の声が、多重録音のように重なり、膨れ上がっていく。老人は恍惚とした表情でメダルを追加で投げ込み、周囲の参拝客も、堰を切ったように自分のデバイスを読み取り台に押し付け始めた。
「再同期、完了。おめでとう、お兄ちゃん。今日から、みんなが家族だね」
紗季だったはずの声が、数千人分の女性の声が重なったような、異様な和音(コード)に変わっていた。私の視界の端で、eペーパー端末が「第402ヘゲモニー期 終了・再定義中」というメッセージを虚しく点滅させている。
セミの鳴き声が、突然止まった。代わりにあたりを包み込んだのは、数万人の人間が一度に囁き合うような、静かな、あまりに静かなノイズだった。