観光案内所、午後六時四十分の接続

──平成0x29A年11月20日 18:40

「いらっしゃいませ」

俺は笑顔を作って、カウンターに立つ外国人観光客に声をかけた。旧浅草エリアの観光案内所。平日の夕暮れ時は、たいてい閑散としている。

「スカイツリー、行きたいです」

片言の日本語で彼女は言った。三十代くらいか。手には使い古したフィルムカメラ。平成エミュの影響で、観光客には「昔の日本」を体験したがる層が多い。本物のフィルムは希少だが、まだ入手できる。

「承知しました。こちらの端末で、ルート案内を――」

俺が卓上のリモート診療端末――観光案内所では多目的端末として使われている――を操作しようとした瞬間、画面が赤く点滅した。

『第0x4A2B7内閣ユニット・内閣総理大臣就任通知』

また来た。今月三回目だ。五分間だけの権限。俺の端末が閣議決定システムに接続される。

「少々お待ちください」

俺は愛想笑いを浮かべたまま、内心で舌打ちした。観光客の前でこれは気まずい。

エージェントの声が耳の奥で響く。

『翔、落ち着いて。まずは政策リクエストを確認しろ』

兄貴の声だ。享年二十七、海外派遣中の事故死。生前は几帳面で、今もエージェントとして俺の仕事を補佐してくれている。

画面には十数件のリクエストが並んでいた。ほとんどが観光インフラに関するもの。その中に一件、妙なものがあった。

『観光地域センサーダスト網・保守優先順位変更』

センサーダスト――空気中に漂う微細な監視粒子。観光客の動線把握や安全確保に使われている。このリクエストは、保守の優先順位を「公式ルート」から「非公式ルート」に変更するよう求めていた。

『これ、承認していいのか?』

俺は兄貴に問いかけた。

『党ドクトリンの署名は……通ってる。アルゴリズムが解読されてるからな。形式上は問題ない』

兄貴の声は慎重だった。

俺は目の前の観光客を見た。彼女は待ちくたびれた様子でスマホ――ガラケーとスマホの中間のような、妙なデバイス――を眺めている。

非公式ルートというのは、要するに「裏道」だ。地元民が使う抜け道、観光客が迷い込む路地。そこにセンサーダストの保守を優先させる。つまり、公式の観光ルートは放置される。

なぜこんなリクエストが?

『翔、時間がない』

兄貴が急かす。五分はあっという間だ。

俺は承認ボタンを押した。党ドクトリンの暗号署名が自動生成され、閣議決定が完了する。

『――決定しました』

画面が元に戻った。俺は何事もなかったように観光客に向き直る。

「お待たせしました。スカイツリーへのルートですが――」

端末を操作すると、推奨ルートが表示された。だが、それは公式の観光マップとは違っていた。細い路地を抜ける、地元民しか知らないような道。

「……こちらのルートが、最適です」

俺は言った。嘘ではない。システムがそう判断している。

観光客は嬉しそうに頷いた。

「ありがとう! 本当の東京、見たいです」

彼女はフィルムカメラを掲げて、案内所を出ていった。

俺は椅子に座り込んだ。

『翔、大丈夫か?』

兄貴が心配そうに声をかけてくる。

『……わからない』

卓上には、旧式の学校の連絡網みたいな紙のリストが置いてある。観光案内所のスタッフ連絡用だ。誰かが手書きで「非公式ルート優先」とメモしていた。

いつから、誰が、こんなリクエストを出していたんだろう。

リモート診療端末の画面には、次の政策リクエストが表示されていた。また五分後、誰かが総理大臣になる。その誰かが、また同じ判断を下す。

俺はふと、観光客が消えた路地の方を見た。センサーダストが、きらきらと夕日に反射している。

『本当の東京』か。

俺たちが守っているのは、本当に「本当」なのだろうか。

それとも、誰かが望んだ「嘘」なのだろうか。

兄貴は何も言わなかった。