磁気の利息、紙の約款
──平成0x29A年 日時不明
記録が欠けている日だ、と端末が毎回言う。
カレンダーの欄は灰色で、どこにも確定の文字が乗らない。私はそれを見ないふりをして、金融窓口のカウンターを拭いた。消毒液の匂いの下に、紙の古い甘さが残っている。
「番号札、どうぞ」
来店者は少ない。けれど契約は途切れない。平成エミュの店舗は、木目調のパネルと手書き風ポップで“安心”を売る。脇の棚には、合成食品プリントの試供品――食パン型の白いバーと、味だけ焼き魚の薄片が、透明パックで並んでいた。来店者に渡すと、たいてい笑う。笑ってから、契約書の重さに黙る。
耳元で、代理エージェントの声がする。
「お客様は“相続放棄”をご希望です。条項C-12」
代理、とわざわざ強調するのは、私の本来のエージェントが法定倫理検査に入っているからだ。父の人格を移植した彼は、いま隔離モード。代わりに付いているのは、汎用の“翻訳・整文型”――丁寧で、声が軽い。
カウンターの向こうで、町内会の人が立ち尽くしていた。腕に回覧板用のクリップを挟んだまま、胸ポケットから黄ばんだカセットテープを半分のぞかせている。
「これ、音が残ってるんです。約束も。…だから、解約じゃなくて」
彼女は言葉を探して、店内の掲示板を見た。入口横の町内会掲示板だ。防災訓練、清掃当番、迷い猫、そして小さく「契約更新の注意:口約束は記録媒体推奨」と貼られている。昭和みたいな注意書きなのに、下にはQRとサブスクの案内がある。
「“相続、放棄”じゃなくて、“相続、保護”……守りたいの」
私は口の中で復唱した。
相続保護。そんな正式な手続き名は、ここにはない。
代理エージェントが即座に要約を投げる。
「“相続放棄(disclaim)”。お客様の発話から意図一致率92%」
「ちがう」彼女が首を振った。「放棄じゃない。保護。ほご」
私は端末の入力欄を止めた。窓口の奥で、古いMDデッキがBGMを流している。ストリーミングのプレイリストを、わざわざMDに焼いたものだ。音は柔らかいのに、契約画面は硬い。
「テープ、再生できますか」
彼女はカセットを両手で差し出した。テープのラベルに、太い字で“約款よみあげ”とある。
店の備品箱から、私は非常用の小型プレイヤーを出した。充電はとっくに死んでいるから、手回し発電のハンドルを回す。ギ、ギ、と平成の安っぽい音。
再生。
『――この口座は、遺された者の生活を“保護”するために設ける』
男の声だ。少し笑いが混じる。たぶん彼女の夫か、親か。
代理エージェントが割り込む。
「“保護”は比喩表現。現行制度との差分断片に該当せず。放棄手続きが最適」
私は喉の奥が冷たくなった。比喩だと切り捨てれば、契約は簡単だ。けれどこの店は、簡単さを“安心”として売っている。安心の裏で、人の言葉が勝手に短縮される。
「生成AI校正、かけます」
私は画面の隅のボタンを押した。契約文生成の補助機能だ。客の口述と媒体記録を取り込み、文章を整え、法令互換に寄せる。
『校正モデル:Heisei-Style v29(党ドクトリン準拠)』
そんな表示が一瞬だけ出て、すぐ消えた。準拠なんて、今どき誰でも覗けるのに。
校正結果が出る。
『本口座は、相続人による“保護的管理”を目的とする。相続放棄を前提としない』
私は息を止めていたことに気づいた。代理エージェントが黙る。黙ってから、硬い通知音。
「警告:条項署名に党アルゴリズム署名が必要。内閣ユニット審査へ」
画面の隅で、承認待ちの砂時計が回りはじめる。どこかの内閣ユニットが、この差分断片をレビューする。誰が、どんな気分で。
彼女は指先でカセットの角を撫でていた。
「ね、掲示板の注意書き、守ったよ。記録媒体、持ってきた」
私はうなずいて、試供品の合成食品プリントを一つ差し出した。食パンの形をしたやつ。
「よかったら。待ってる間に」
彼女は受け取って、少しだけ笑った。平成の店員みたいに頭を下げる私に、平成の客みたいに会釈を返す。
砂時計が止まる。
『内閣ユニット#0x7F2C1A:暫定承認。理由:社会安定に資する表現』
理由が、薄くて、ありがたい。
代理エージェントがようやく言った。
「“保護”を“放棄”と誤訳しました。訂正します。…あなたの本来エージェントが戻れば、こういう誤りは減ります」
「戻らなくても、減らせるよ」私は小声で返した。
町内会掲示板の前で、彼女は契約控えを胸に抱え、カセットをポケットにしまった。紙は軽いのに、顔が少しだけほどけている。
私はカウンターの下の引き出しを開け、父の隔離中アイコンを見た。倫理検査の進捗は相変わらず“未定”。記録欠損の日に、未定が重なる。
それでも今日は、誤訳が一つ直った。
党の署名が何を思ったか知らないが、少なくとも、あの声の「保護」は比喩のまま消えずに残った。
手回しプレイヤーのハンドルを、私はもう一度だけ回した。ギ、ギ、という音が、店の木目調に馴染んでいく。