鍵束が鳴る、訓練区画B
──平成0x29A年07月26日 14:00
平成0x29A年07月26日 14:00。
訓練区画Bの体育館は、ワックスと濡れたゴムの匂いが混ざっていた。床に引かれた黄色いテープが「浸水ライン」を示し、壁際にはポリタンクと毛布。天井のスピーカーが、わざとらしいサイレンを短く鳴らす。
「水位、上がりまーす。避難誘導班、動線確認」
班長の声に合わせて、私は首から下げたIDを一度叩く。胸元の表示に『遺伝子ネットワーク保守:臨時派遣』と出る。災害訓練なのに、今日は水じゃなく“遺伝子”が漏れている。
耳の内側で、父のエージェントが咳払いした。
『お前、鍵は? 鍵は持ったか? いざって時に家に入れんぞ』
「はいはい」
私は腰のカラビナを鳴らした。家の鍵の束。実家の古い玄関、倉庫、郵便受け、そして私が今住む団地のカードキーまで、平成の名残みたいにジャラジャラしている。
訓練用の配給は、ドローンで届くことになっていた。体育館の上に設置された透明な受け口が開き、外の光が一瞬差し込む。プロペラ音とともに白い箱が滑り込んで、床に着地する。
箱の側面のラベルが、妙に古いフォントで踊っていた。
『皇統ネットワーク連携・栄養補助(訓練用)』
誰も気にしない。配給は配給だ。
私は箱を開ける前に、端末の通知を確認した。
《異常:GN-微細偏差(第8居住ブロック/団地系統) 0.07%》
《推奨:差分断片生成→内閣ユニット承認》
0.07%。誤差みたいな数字だ。でも、その誤差のせいで「連携」が滑り、配給の優先順位が入れ替わる。今日は訓練だから笑って済む。次が本番なら、笑えない。
父が、低い声で言った。
『また“薄い血”の方か。お前の団地、昔から混線が多い』
「混線って、ラジオじゃないんだから」
『似たもんだ。聞こえないはずのものが、聞こえる』
私は体育館の隅に置かれた折り畳み机に座り、時間貸しCPUのアプリを起動した。画面はiモードみたいな階層メニューなのに、上にARの割引広告が被さってくる。
《5分 12クレジット/匿名利用/ログは訓練用に破棄》
親指で「借りる」を押す。
父が鼻で笑った。
『金で頭を借りる時代か。お前の祖父さんが聞いたら怒るぞ』
「祖父さんは怒れないでしょ。もう、あなたがここにいるんだから」
CPUが回り始め、私の端末の上で小さな砂時計が反転する。私は“差分断片”を組む。団地系統の遺伝子ネットワークの微細偏差を、訓練中だけ「無害なノイズ」として扱う提案。恒久じゃない。五分でいい。
《提出先:第0xA17C3 内閣ユニット》
《署名条件:党ドクトリン準拠アルゴリズム》
承認が要る。私は画面に浮かぶ署名要求を眺めた。最近は皆、アルゴリズムの癖を半分知っている。だから余計に、気持ちが悪い。
スピーカーがもう一度、サイレンを鳴らした。
「要支援者、搬送開始!」
訓練の担架が動き、毛布がこすれる音がする。
父が急に真面目になった。
『お前、鍵束を一回握れ。落ち着け』
私は言われるまま、鍵を掌に押し付けた。冷たさと重さが、今ここに自分がいることを思い出させる。
時間貸しCPUの砂時計が残り一分になった。
私は“例外の理由”欄に、短く打ち込む。
「訓練配給の誤配防止。団地内の連携途絶を回避」
送信。
十数秒の沈黙のあと、端末が震えた。
《内閣ユニット決定:暫定承認(300秒)/配給優先順位差分適用》
同時に、天井の受け口がまた開き、二機目のドローンが別の箱を落とした。今度は団地の高齢者向けの水と簡易食。訓練のはずなのに、箱の宛先タグに私の団地の棟番号が出ている。
近くの係員が首を傾げた。
「え、ここ、そんな設定でしたっけ?」
私は肩をすくめる。
「訓練って、現実の癖が出るんですよ」
父が、私の耳の奥で小さく笑った。
『ほらな。聞こえないはずのものが、聞こえたろ』
私は箱を抱え、鍵束を鳴らしながら出口へ向かった。五分の承認が切れる前に、団地の受け取り口へ回す必要がある。
体育館の外は夏の匂いがした。空の向こうで、別の誰かが別の五分を生きている。
私の端末に、最後の通知が一つだけ落ちてきた。
《GN-微細偏差 0.07% → 0.00%(暫定) 原因候補:個体鍵束の近接認証ノイズ》
私は立ち止まって、自分の掌の鍵を見た。
笑うしかない。
父が言う。
『な? 鍵は大事だ』
「……うん。今日はそういうことにしとく」
ドローンの影が、私の足元を静かに追い越していった。