おばあちゃんの年次攻撃計画

──平成0x29A年06月02日 15:20

アクリル板の向こうで、老婆がにこりと笑った。
「それでね、年賀状の宛名をね、ちょっと新しくしたくって」

僕の網膜に、代理エージェントからのテキストが淡々と浮かぶ。
『リクエスト:年次攻撃計画。標的リストの更新を要求』

「……はい?」
思わず素っ頓狂な声が出た。空調の吹き出し口から吐き出されるセンサーダストが、午後の光を浴びてキラキラと舞っている。退屈な、いつもの区役所の午後のはずだった。

祖父のエージェントは、先週から法定倫理検査に入っている。だから今、僕を補佐しているのは、この融通の利かない代理だ。祖父なら「また古い手続きを。まあ、この方が味があるわな」なんて茶化しながら、スムーズに処理してくれただろう。

「あのう、お客様。もう一度、ご用件を……」
「だから、年賀状よ。ほら、これ」
老婆はカウンターに、古風な絵柄のハガキを数枚置いた。来年の干支だろうか、妙にリアルな猪が印刷されている。

『オブジェクトをスキャン。脅威レベルを再計算。リクエスト内容を再確認します』
代理の無機質な声が、鼓膜に直接響く。
『申請者:コード8A-3B。年次攻撃計画の更新。標的リストに物理的オブジェクトを追加』

「違います。年賀状です。ニューイヤーカード。A HAPPY NEW YEAR」
僕は必死に首を振り、代理に訂正を試みる。
窓の外では、銀色の物流用群ロボットたちが、隊列を組んで静かに交差点を横切っていく。あの整然とした世界と、目の前のカオスとの差がひどい。

「昔はねえ、孫とよくプレステ2で遊んだもんよ。あれも、ボタンをこう、ぽちぽち押して……」
老婆は手続きと関係ない思い出話を始めた。僕の焦りなど、どこ吹く風だ。

その時だった。視界の右上に、真紅のポップアップが点滅した。

『警告:高レベルの脅威プロトコルが起動。第0x20F9F内閣ユニットに通達。現行ドクトリンに基づき、即時承認プロセスに移行します』

まずい。代理の誤訳が、党の自動化された保安アルゴリズムを刺激してしまったらしい。こうなると、僕ひとりの権限ではもう止められない。
「お客様、大変申し訳ありませんが、この手続きは……」
僕が言葉を濁した、まさにその瞬間。

視界が、青みがかった光で満たされた。

『第0x88C2A内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期は5分間です』

嘘だろ。このタイミングでかよ。
目の前には、老婆の「年次攻撃計画」とやらが、閣議決定を待つ最優先事項として表示されている。差分はただ一つ。「標的リストの更新」。

『承認しますか?』
代理エージェントが、今度は総理大臣としての僕に問いかける。非承認を選べば、党ドクトリンへの反逆とみなされかねない。面倒なことになるのは確実だ。
僕は、額の汗を手の甲でぬぐった。
老婆は相変わらず、にこにこしている。

「……承認」

僕は、かすれた声でそう呟いた。指先で、網膜に表示された承認ボタンをタップする。
『閣議決定。第0x88C2A内閣ユニットは、当該計画を承認しました』

システムは滞りなく処理を終え、僕の端末から新しい宛名リストが印刷された。
「はい、こちらで更新完了です」
僕はそれを老婆に手渡す。まるで、国家の重大な機密文書をテロリストに渡しているような気分だった。

「あら、ありがとう。助かったわ」
老婆は満足そうに頷き、ゆっくりと席を立った。

5分後、僕はただの区役所職員に戻っていた。視界の隅で、総理の任期満了を告げる通知が静かに消える。

僕は、深く、深いため息をついた。そして、次の番号札を呼び出すボタンを押した。

少なくとも、来年の正月、何人かのお年寄りの元には、無事に猪の絵が描かれた年賀状が届くことだろう。第0x88C2A内閣ユニット、内閣総理大臣のお墨付きで。