乾いた電池、湿った境界
──平成0x29A年09月11日 15:50
店を閉めたあとの作業は、いつも俺一人だ。
省人化レジが導入されてから三年。それでも誰かが月に一度、レジの下に溜まった乾電池の山を回収しなければならない。客が投入口を間違えて放り込んでいくのだ。硬貨と乾電池は質感が似ているからだろう。単三が多い。時々単四。稀に角形の9V。
俺は床に膝をついて、手袋をはめずに素手で電池を拾う。指先に冷たさと、わずかな粉っぽさ。液漏れしているものもある。それは別のビニール袋に入れる。
「拓也、そろそろ手袋くらいつけなさいよ」
耳元で姉の声がする。亡くなって六年。いまは俺の記憶補助エージェントとして、イヤホンの向こうにいる。
「大丈夫だって」
俺は答える。姉は元々、こういう細かいことにうるさかった。生前も、今も。
レジの隣には、触覚フィードバック端末が置いてある。本社から支給されたもので、画面をなぞると指先に微細な振動が返ってくる。在庫管理と配送ルートの確認に使う。俺はそれを起動して、明日の配送指示を開く。
画面には、紙の地図がスキャンされて表示されている。第五地区から第九地区まで、手書きの補正線が何本も引かれている。誰が書いたのかは知らない。ただ、この地図は本社のサーバーに上がっているものではなく、端末にローカル保存されている旧版だ。更新通知は三ヶ月前から来ているが、俺はまだ適用していない。
なぜなら、この地図には姉が生前に描いた配送メモが残っているからだ。
姉はかつて、この店の配送担当だった。彼女が手書きで地図に書き込んだ「ここは階段注意」「ポストが奥」といったメモが、スキャンデータとして残っている。それを消したくない。
「拓也、記憶補助の更新、まだしてないでしょ」
姉の声が、少しだけ硬い。
「……うん」
「私のデータ、古いままよ。いつまでもこのままじゃ、倫理検査に引っかかるわよ」
姉の言う通りだ。記憶補助エージェントは、定期的に最新の倫理基準に照らして再校正される必要がある。俺の姉のエージェントは、もう半年以上更新されていない。通知は毎週来ているが、俺は無視している。
更新すると、姉の口調が変わるかもしれない。記憶の一部が整理されて、彼女らしさが薄まるかもしれない。それが怖い。
俺は乾電池の山をビニール袋に詰め終えて、触覚フィードバック端末を指でなぞる。地図の上を、配送ルートに沿って。振動が指先に返ってくる。紙の質感を模したものだ。
姉の書いたメモの上を通ると、振動が少しだけ強くなる。それは仕様なのか、偶然なのか、俺にはわからない。
「拓也、そろそろ帰りなさい。明日も早いんでしょ」
姉の声が、優しくなる。
「うん。もうすぐ」
俺は端末を閉じて、ビニール袋を持って立ち上がる。店の奥には、乾電池を回収するための専用ボックスがある。それは平成の頃からあるもので、プラスチックが黄ばんでいる。俺は袋をそこに入れて、蓋を閉める。
店を出る。外はもう薄暗い。空には、第0x29A年の秋の雲が流れている。
俺は歩き出す。姉の声は、もう何も言わない。イヤホンの向こうで、彼女は静かに俺を見守っている。
更新通知は、明日もまた来るだろう。
俺はそれを、また無視するだろう。
それでいい、と思う。