接点復活の呼気

──平成0x29A年 日時不明

「お客さん、カセットの端子が汚れてますね。これじゃ党の監査アルゴリズムが通りませんよ」

俺はカウンター越しに、黄ばんだプラスチックのカートリッジを押し返した。ラベルには『平成0x29A年度 第八管区・高層農業プラント営農計画(春)』と、手書きのマジックで書かれている。形状はどう見ても、三百年以上前のエンターテインメント機『ファミリーコンピュータ』のロムカセットそのものだ。

窓口の向こうで、作業着姿の老人が困ったように眉を下げた。背後の窓の外には、雲を突き抜けるほどの高さを持つ農業プラントの黒いシルエットがそびえている。あそこでは遺伝子調整された稲が二十四時間体制のLED照射で育っているが、その作付けデータを申請する媒体は、なぜかこのレトロな規格が「最適解」として採用され続けていた。

「すまんねえ。上の階は湿気が多くて」
老人が震える手でカセットを受け取る。

《おい達也、貸してみろ。その角度じゃ駄目だ》

右耳のイヤホンから、しわがれた声が響く。親父だ。五年前に死んだ元・中古家電修理屋。俺の担当エージェントとして、脳内の聴覚野に居座っている。

「親父、仕事中だ。黙っててくれ」と小声で呟き、俺は視線を壁の掛け時計に向けた。カチ、と秒針が動く。その瞬間、網膜に『アナログ時計・視認ライセンス料:〇・〇二円 決済完了』という小さなポップアップが浮かんで消えた。壁に掛かった時計を見るだけで金を取られるサブスクリプション社会。平成の世もこんなに世知辛かったのだろうか。

「もう一度、挿してみますか?」
俺は溜息交じりに言った。
「いや、規定の手順を踏む」老人はカセットの底面、緑色の基板が覗く開口部を口元に近づけた。「ふーっ、ふーっ」

湿った息を吹きかける音。
これは単なる迷信ではない。呼気に含まれる微量なDNAと水分の飛散パターンを、読み取り機が物理鍵として認識するのだ。アナログハックと生体認証の悪魔合体。党ドクトリンが定めた『真正なる人間性の証明』の一環らしいが、俺にはただの汚い儀式に見える。

老人がカセットを、紅白の機体に差し込む。ガチャリ。硬い手応え。
パワー・オン。

『認証中……エラー。チェックサム不整合。再監査が必要です』

無慈悲な電子音が響く。老人の肩ががっくりと落ちた。これで三回目だ。監査が通らなければ、彼は来期の作付け権利を失う。

《達也、見てらんねえな》親父の声が苛立つ。《端子の酸化被膜だ。息だけじゃ落ちねえよ。昔、店でよくやったろ。綿棒ねえのか》
「公的窓口にそんなものあるわけないだろ。物理干渉は改竄とみなされる」
《馬鹿野郎、マニュアルの裏を読め。第四〇二ヘゲモニー期の特例措置、条項B-6。『申請者の生体情報を含む有機溶媒による清掃は許容される』だ》
「……有機溶媒?」
《唾だよ、唾》

俺は顔をしかめたが、目の前の老人は泣きそうな顔をしている。背後の行列からは舌打ちが聞こえ始めていた。俺は意を決して、手元の端末で条項を検索する。確かに、解釈次第では適用可能な条文が埋もれていた。

「お客さん」俺は声を潜めた。「ちょっと、カセットを貸して」

監視カメラの死角で、俺はカセットの端子を袖口で強く拭った。親父の言う通りにするのは癪だが、このまま老人を帰すのは寝覚めが悪い。こっそりと自分の指に唾をつけ、端子を磨く。汚い。だが、これが『昭和・平成』の現場の知恵だと親父は常々語っていた。

もう一度、スロットイン。
電源を入れる。

一瞬のノイズの後、画面にドット絵の稲穂が表示された。8ビットのファンファーレ。
『認証成功。セーブデータを確認しました』

モニターには、無機質な行政データの羅列ではなく、RPGのステータス画面のような形式で、老人の家族の名前と、それぞれの役割が表示されていた。そして一番下のスロットには『Player 2: Haru - 永眠』の文字。

「あぁ……」老人が画面に手を伸ばす。「ばあさんのデータ、まだ残ってたか」

それは行政手続きのための申請書であると同時に、亡くなった妻と二人三脚でプラントを管理してきた日々の記録(セーブデータ)でもあったのだ。バックアップ電池が切れれば消えてしまう、揮発性の思い出。

《へっ、いい画質じゃねえか》親父が鼻を鳴らす。《これだから修理屋はやめらんねえんだ》

俺は無言で承認印を押した。朱肉の匂いが鼻をつく。
カセットを老人に返す時、そのプラスチックは僅かに熱を帯びていた。俺たちの呼気と体温が、古びた回路をどうにか繋ぎ止めている。

「来期も、頑張ってくださいね」
「ありがとう。ありがとう」

老人が去った後、俺は再び壁の時計を見た。秒針が動く。チャリン、と課金の通知。
支払った数銭の重みが、先ほどよりも少しだけ、確かなものに感じられた。