オフラインの灯りと回覧板
──平成0x29A年 日時不明
充電式NiMH電池のブリスターパックを、色褪せた陳列棚のフックに掛ける。ガラケーの交換用パーツの隣という、お世辞にも目立つとは言えない場所だ。
「在庫ステータス更新:正常」
耳の奥で、無味乾燥な合成音声が響いた。親父のエージェントなら「そこじゃ客の目に入らねえぞ、商売の基本を忘れたか」と小言が飛ぶところだが、あいにく今は三年に一度の法定倫理検査の期間中だ。代わりにアサインされた代理エージェントは、事務的な処理しかしてくれない。
「創ちゃん、またうちの冷蔵庫がバカになっちゃったわよ」
店先に、近所の定食屋の女将さんが不満げな顔で立っていた。
「ごめんね女将さん。商店街のユビキタスセンサー網が落ちてるんだ」
俺はカウンターから身を乗り出して答えた。このところ、商店街一帯の業務が完全に停滞している。原因は、古くなったユビキタスセンサー網のプロトコル更新リクエストが、内閣ユニットの合意形成プロセスでひっかかっているからだ。
『党』のアルゴリズムが吐き出すドクトリン署名と、数十万並行稼働するパラレル内閣のどこかが承認を出さなければ、この街のネットワークは再起動しない。誰かの五分間の総理大臣任期中に閣議決定のボタンが押されるのを待つしかないのだが、今は多様なステークホルダーからの差分断片が混線し、処理が絶望的に詰まっていた。
「代理エージェント、現在の内閣ステータスと復旧予測は?」
「照会エラー。現在、システムは日時不明(記録欠損)のステータスとなっており、パッチ適用の見通しは算出不能です」
カレンダー機能まで巻き込んでバグっているらしい。これではいつ復旧するかわからない。センサー網が死んでいるせいで、女将さんの店の最新型スマート家電も勝手に食材の自動発注を止めてしまっている。合意形成の遅延が、そのまま今日のメシの危機に直結するのだ。
「仕方ない。女将さん、手動のオフラインモードに切り替えに行くよ」
俺はカウンターの下から、年季の入った「紙の回覧板」を引っ張り出した。茶色いバインダーに、親父の代から使っているオフライン設定の手順書を挟み込む。ついでに、さっき棚に掛けたばかりの充電式NiMHをいくつかポケットに突っ込んだ。
センサー網が沈黙した商店街は、自動ドアの反応も鈍く、アーケードの調光も狂っていた。俺は回覧板を小脇に抱え、定食屋、豆腐屋、クリーニング店と順番に回り、スマート家電のネットワークを切断して手動設定に切り替える手伝いをした。「ついでにこれ、センサーなしで動く古いランタンの予備電源に」と、NiMH電池を配って回る。
「創ちゃん、親父さんそっくりに気が利くようになったねえ」
豆腐屋の親父にそう言われ、俺は少し照れくさく笑った。
店に戻る頃には、空の色からして夕刻だろう時間帯になっていた。記録欠損のせいで正確な時刻はわからないままだが、薄暗いアーケードのあちこちで、俺が配った電池を入れた古いLEDランタンがぽつぽつと温かい光を灯し始めている。
内閣の処理遅延がもたらした、不便でちぐはぐな時間。だが、親父が毎日歩いて築いていたであろうこのアナログなご近所の景色に触れられたことは、世界の歪みの中での小さな救いのように思えた。